御朱印

総持寺

総持寺アイキャッチ画像

衆徳山胎生院 総持寺には金沢へ行った帰りに あいの風鉄道、高岡駅で下車して歩いて行き参拝しました。
当日は小雪がちらつく晴れ間をみての参拝だったので あまり写真が撮れませんでした。
そんな状況ですし、参拝者は私以外いませんでした。
御朱印も住職様がいらっしゃらなかった様で、書置きで 良かったらという事で参拝日を入れてもらって 頂いてきました。
お寺の周りにはたくさんの石仏がありました。
六十六部の石仏と言われるらしいです。
案内板には、残存している39体がとなっていますが 私は実際に数えていません。
境内に入ってすぐ目に付くのが、右手には真言宗の開祖、弘法大師空海、 左手には光輝く金色の鳳凰が目立ちました。
この鳳凰は 平成21年(2009)高岡開町400年を記念して建立したとの事で、 鳳凰の上には左右それぞれ「文殊菩薩」「虚空蔵菩薩」が安置されています。
高岡の地名の元となったお寺さんの割にはこじんまりしていて、 境内には所狭しと仏像などありました。

また瑞龍寺とは立地上隣合わせだけど、間に城端線が 走っていて、踏切の関係で簡単に行き来は出来ないのですね。

参拝日

参拝日 平成31年2月8日
所在地 富山県高岡市関本町32
総本尊 胎蔵生大日如来
宗派  高野山真言宗
山号  衆徳山
院号  胎生院
御利益 安産祈願、合格祈願、厄除け
札所・霊場 越中一国観音霊場 8
      越中万葉七福神 毘沙門天

札所とは、巡礼者が参拝の印として、札を納めたり受け取ったりする所です。
霊場(れいじょう)とは、神仏の霊験あらたかな場所という意味で、神社・仏閣などの宗教施設やゆかりの地など、 神聖視される場所をいいます。
この様な場所は古くから信仰の対象になっており、現在でもお遍路や修験者などの往来の多いところがたくさんあります。

一方で〇〇番霊場となっていても見つけにくい場所もあるようです。

越中万葉七福神

大黒天  関野神社 富山県高岡市末広町9-56
毘沙門天 総持寺(観音寺) 富山県高岡市関町32
毘沙門天 弘源寺 富山県高岡市二上
恵比須尊 西宮神社 富山県新湊市本町2-4-12
弁財天 新湊弁財天 富山県新湊市片口95
福禄寿 佛石寺 富山県高岡市伏木一宮鉢伏16
寿老人 千手寺 富山県氷見市幸町13-4
布袋尊  妙法寺 富山県高岡市伏木古国府12-18

私は今回関野神社と総持寺さんを参拝しました。
機会があったら他の仏閣も参拝したいと考えています。

御由緒

資料によると、衆徳山胎生院 総持寺は創建当時、今の高岡市石堤の地にあったといわれ、 前田利長公(加賀藩二代藩主)が守山在城の節は祈願所となり、 高岡城移住の時、利長公の意向により、慶長年間に現在地に移ったとされるとの事です。

総持寺二十二世快雄和尚は、 慶長十四年(1609年)時の利長公高岡城築城の際、 利長公より、当時関野と呼ばれたこの地の新たな命名を依頼され、 中国の詩経の一節により「高岡」と名付けた人物だそうです。
「鳳凰鳴けり、彼の高き岡に」(詩経の一節より)

総持寺さんの有する「木造千手観音座像」は 昭和12年5月25日に国宝に指定され、文化財保護法が実施せらるや、 昭和25年8月29日に新たに国重要文化財として指定されたものであるとの事です。
総持寺中興一世は千手観音座像の胎内銘により 河内国(現在大阪府)金剛寺の禅恵法印とされています。

当時の南北朝時代において金剛寺は南朝方の寺院とされ、 禅恵法印は正平3年(1348年)65歳で正学頭に補せられた南朝方の柱石であった、 おそらく禅恵法印とその弟子がこの像を携えて総持寺に来ていると考えられます。
当時の北陸地方に於ける南朝方の動静をうかがうことができます。
以来観音信仰の拠点として「かんのんでら」と呼ばれる由縁でもあるとの事です。

総持寺本堂総持寺本堂
総持寺鐘つき堂総持寺鐘つき堂
総持寺鳳凰総持寺鳳凰
総持寺石仏総持寺石仏
総持寺子育て観音総持寺子育て観音
総持寺石仏説明総持寺石仏説明
総持寺御朱印総持寺御朱印
 

令和元年9月17日再参拝

冬に一度お参りしたのですが当時は雪も積もっていたし、今回改めて参拝いたしました。
そして令和の御朱印を頂いてきました。
一種類増えていました。

総持寺山門総持寺山門
総持寺手水舎総持寺手水舎
 
総持寺弘法大師像総持寺弘法大師像
総持寺絵馬総持寺絵馬
 
御朱印 大日三尊御朱印 大日三尊
御朱印 千手観音御朱印 千手観音