御朱印

瑞龍寺

瑞龍寺のアイキャッチ画像

北日本新聞より

令和元年5月16日北日本新聞朝刊によれば、石川県立図書館が所蔵する17世紀前半の古文書の中に、高岡開町の祖、加賀藩2代藩主前田利長公(1562-1614)の葬儀に関する記述が見つかったとあります。

御遺体は瑞龍寺に運ばれて火葬されたことや、数万人が参列したこと、ひつぎは金銀やガラス、宝石をちりばめた豪華なものであったことなどが書かれているとのことです。

瑞龍寺には平成31年2月8日に金沢へ行った帰り、あいの風とやま鉄道の 高岡駅で下車して徒歩で参拝に行きました。
当日は雪もちらつく寒い日で参拝客も数名でした。
以前は高岡駅前にユニー、いとはん、駅裏にはダイエーなどがあって 賑わっていたのですが、商圏が変わったのか、いずれも現在ありません。

それらに代わって賑わっているのが、平成の大修理が施され国宝にも 指定された瑞龍寺です。
前田利長公菩提寺、高岡山瑞龍寺は曹洞宗の仏教寺院です。
開基が前田利常公、開山が広山恕陽とされています。
仏殿、法堂、山門の3棟が近世禅宗様建築の代表作として
1997年(平成9年)に国宝に指定されています。
これは富山県下における初の国宝指定であり、現在も富山県唯一の国宝であるようです。

参拝日

参拝日 平成31年2月8日
所在地  富山県高岡市関本町35
宗派 曹洞宗
山号 高岡山
寺号 瑞龍寺
御本尊 釈迦如来

文化財

文化財 国宝 
    仏殿、法堂、山門 

    重要文化財 
    総門、僧堂(禅堂)、大茶堂、高廊下、北回廊、
    南東回廊、南西回廊、紙本墨書後陽成院宸翰御消息

    富山県指定有形文化財 
    木造烏蒭沙魔明王立像、紙本墨書近衛信尋筆懐紙、
    前田家寄進の宝物

    富山県指定史跡
    石廟

御由緒

前田利長公は慶長10年(1605)、44歳の若さで家督を異母弟の前田利常公に譲り、自らは隠居しました。
利長公には実子がなかったため、異母弟で、当時まだ少年であった利常公を養嗣子としました。
隠居後の利長公は金沢城から富山城に移転します。
その際に、金沢(現在の石川県金沢市)の宝円寺から3世広山恕陽を招き法円寺として開山したのが 富山県内での始まりとされまています 。

宝円寺は前田利家公が越前府中城主の頃から関係が深く、金沢では前田家の菩提寺の1つとして庇護されていました)。
慶長14年(1609)に富山城が焼失すると、利長公は当時、関野と呼ばれていた荒野に高岡城を築き、 城下町を造りました。
慶長18年(1613)には法円寺を富山より高岡城下に移して 藩祖利家公の法要や織田信長、信忠の追善供養を行っています。

慶長19年(1614)、利長公が高岡城で死去すると遺言により法円寺を
利長公の菩提寺とし 葬儀は法円寺で執り行われ位牌が安置されました。
利長公の戒名(瑞龍院殿聖山英賢大居士)に因んで寺名を「瑞龍院」と改めています。
後、さらに「瑞龍寺」に改称しています。
当初城下町として整備された高岡は、慶長19年(1614年)、前田利長公の死去とともに家臣団は金沢へ引き上げ、 高岡城も一国一城令に基づいてまもなく廃城となり 、急速にさびれ始めてしまいます。

3代当主前田利常公は、利長公の33回忌にあたる正保3年(1646)に、
利長公が荼毘に付された場所を選び、 広大な墓所(現国指定史跡)を造営するとともに、瑞龍寺の大改造に着手しました。
代表的な禅宗建築技術である建仁寺流の技術を伝承する加賀藩御大工、
山上善右衛門嘉広を棟梁に任命しました。
明和8年(1771)の「高岡町図の弁」によると、「山門」「仏殿」「法堂」などの主要伽藍は正保、明暦及び万治年間に建設され、 残る「回廊」などの付属部分は、遅くとも利長公の50回忌である寛文3年(1663)には利長公の菩提寺として恥じない大寺院が完成していたものと伝えています。

瑞龍寺の境内は3万6千坪に及び周囲は堀を廻らし、内部には完成までに20年の歳月が費やされたという 七堂伽藍が備えられ加賀100万石の城主に相応しい寺姿になりました。
伽藍配置は中国の径山万寿寺にならい総門、山門、仏殿、法堂が一直線で配置され周囲を回廊でつなぎ左右対称に諸堂が並んで いる独特なもので印象的な境内となっています。
瑞龍寺は近世を通じて前田家の手厚い保護を受け、寺領300石を有する大寺であったそうです。

ところが、延享3年(1764)に「山門」北脇の「浴室」から失火し、 火は瞬く間に広がり、「浴室」、「山門」、「七間浄頭(しちけんじんずう)、「禅堂」を焼き尽くしました。
山門以外の伽藍の復興は 、比較的早期に行われたようですが、「山門」は藩の経済力の低下もあり、なかなか進まなかったようです。
しかしながら、高岡町民の懇願により、 文化10年(1813)ようやく再建の許可が下り、藩では創建時の大工の子孫である山上善右衛門吉順を棟梁に命じ、設計に着手し 、文政元年(1818)11月に完成しました。

以降、藩の援助停止や廃仏毀釈により寺勢が衰え、部材を売るため解体し「禅堂」が「烏蒭沙摩明王堂」に改造され、「大庫裏」、「浴室」及び「回廊」の一部が失われました。
その後、明治期から大正期にかけて回廊の東部分が復元され、昭和、平成の、
大修理前までその陣容だったようです。

昭和・平成の大修理

大修理以前の瑞龍寺は、禅堂(僧堂)が現在の3/1の規模、大庫裏にいたっては明治時代初期に解体され建物はまったく残ってはいなかったようです。
1985年(昭和60年)から、10年間、総工費23億円をかけて行われた大修理では、まず解体・発掘調査などが行われ、建物(大庫裏)があったことを示す基礎の大石が現在地で見つかったほか、寺院内に大庫裏の建物に使用されていた数多くの木材を確認、また砺波市の寺院に大庫裏の玄関部分が移築保存されていることが確認され、大庫裏があったことが証明されました。

これにより文化庁は、これまでなかった大庫裏を回廊の付属物扱いとして復元を異例承認し再建しました。
禅堂(僧堂)も元の大きさに戻し、左右対称の本来の伽藍配置に戻りました。
また失われていた、七間浄頭(東司〔トイレ〕)の便槽の跡、浴室の礎石を発掘調査で確認しました。
これらの2つの建物は将来再建し、七堂伽藍を完全復元する構想があり、すでに設計図が完成しているほか、回廊は昭和・平成の大修理で、七堂伽藍復元を前提とした建築となっているようです。

その後、1997年(平成9年)12月3日に国宝に指定されています。
これは、新規の国宝建造物指定として1967年(昭和42年)に法隆寺綱封蔵が指定されて以後30年ぶりであったそうです。

瑞龍寺の御朱印

瑞龍寺では御朱印を3体頂きました。
一緒に頂いたお品書きの内容を記しておきます。

御本尊様御朱印
瑞龍寺の御本尊は釈迦如来様。
脇侍は智慧の文殊菩薩様。
同じく、慈悲と理智の普賢菩薩様。
本尊唱名 南無釈迦牟尼佛。

烏瑟沙摩(うすさま)明王御朱印
烏瑟沙摩明王とは、主に密教・禅宗寺院において東司(お手洗い)に お祀りする守護神である。
瑞龍寺の烏瑟沙摩明王は左足を高く持ち上げ、不浄な振舞いをした 猪頭天を縛り上げ、戒めているお姿である。
皆様も平常心を保ち、お手洗いを清浄にし、烏瑟沙摩を念じることで、 病気平癒、安産成就、子孫繁栄、家門繁栄、商売繁盛、金運上昇します。

韋駄天様御朱印
韋駄天は、伽藍を守る護法神とされ、日本の禅宗では食物の護法神として厨房に 祀られる。
よく、韋駄天走りと足の速い人の例えにされるが、由縁はお釈迦様の仏舎利を 奪って逃げ去った鬼を追って取り戻したという俗説からといわれる。
また、韋駄天がお釈迦様のために方々を駆け巡って食物を集めたとされ、御馳走という言葉も生まれた。
瑞龍寺では大庫裏(おおぐり)に祀られているが、黄檗の影響から、蒙古風の鎧をまとい、切れ長の目は なかなか好男子。
食とは命をいただく事。
合掌して『いただきます』と感謝を表し、食を生産し、運び、調理した人々に対する感謝を 『ごちそうさま』で結ぶ。

瑞龍寺山門瑞龍寺山門
瑞龍寺 寺標瑞龍寺 寺標
前田利長公像前田利長公像
前田利長公像釈迦如来御朱印
 
韋駄天御朱印韋駄天御朱印
烏瑟沙摩明王御朱印烏瑟沙摩明王御朱印
 
御朱印説明御朱印説明