金沢へ行った帰りに寄りました。
当時は時折吹雪く気候でしたが晴れ間も多く何とか参拝してきました。
高岡の大和百貨店の前を通り、古城公園へ行くようにして歩くと通りに面して右側あります。
参拝日 平成31年2月8日
所在地 富山県高岡市大手町11-29
宗派 浄土宗
山号 鳳徳山
寺号 大佛寺
御本尊 阿弥陀如来
霊場御本尊 馬頭観音菩薩像
札所 高岡新西国三十三ヶ所観音霊場 第29番
大佛寺(だいぶつじ)は、浄土宗の寺院です。
境内にある銅造阿弥陀如来坐像は高岡大仏(たかおかだいぶつ)として知られ、むしろその方が有名かな。
山号は鳳徳山(ほうとくさん)です。
創建当時のことを記録した書物などは現存せず、創建年や開基については不詳との事ですが、高岡大仏が最初に建立された1221年前後には既に大仏を祀る寺院が存在したかどうか、定かではないのですが少なくとも高岡大仏が現在の位置に移転した1609年前後には創建されたと考えられているそうです。
度重なる火災で一時は荒廃していたが、1745年、坂下町の極楽寺の第15代住職である等誉上人と、その弟子である良歓により正式に中興されたとの事です。
極楽寺末寺の大佛寺が管理しています。
銅造阿弥陀如来坐像として昭和56年4月15日 高岡市指定文化財に指定されました。
高さ15.85メートル、総重量65トンといわれます。
高岡大仏は、コンクリートの台座内は巡回できるようになっており、 地獄変・極楽変の絵画が浄土宗の宗教観を伝えています。
台座の内部には回廊があり地獄絵などが展示されていて、中央の部屋には 木造大仏の頭部が鎮座していて1900年に焼失した、二代目の焼け残りの頭と言われてきたのですが、残っている歴史書に描かれているものとは違っており、調べによると火災の翌年に寄進されたものだったようです。
代々高岡市民には大仏さんとして親しまれており、まさに高岡銅器の職人の技術の結晶と言えるものです。
建物に覆われてはいなく、15メートルほど後退したらしいですが、商店街を散策中に突然現れる大仏さんにはただ驚くばかりです。
1933年、歌人の与謝野晶子が高岡を訪れた際に、「鎌倉大仏より一段と美男」と評したとも伝わり、日本一端正な顔立ちの大仏とも言われています。
日本三大仏として奈良の大仏、鎌倉大仏に並び称されていますが、岐阜市の正法寺にある岐阜大仏を挙げる人もいて、消失、再興の歴史がある中、認知には時間を要するのではないのでしょうか。
私も参拝に行ってみたいです。
1221年 | 源義勝によって約5mの木造大仏が二上山の麓に建立される。 |
1609年 | 1221年に建立された大仏が前田利家によって移転されるも後に焼失。 |
1745年 | 坂下町の浄土宗極楽寺第15世等誉上人が大仏建立を誓い、弟子の良観を勧進職として高さ約10mの木造金色の仏像を建立しました。 |
1821年 | 1745年に再建された大仏が焼失するも、極楽寺第26世譲誉上人は再興を祈念して町民に訴え続けました。 |
1841年 | ついに20年後に約5mの木像を再興しました。 |
1900年 | 高岡大火が発生し、大仏も再び焼失しました。 |
1907年 | 定塚町の松木宗左衛門は、今度は再び焼けることのない鋳銅仏にしたいと発願し、市内だけでなく広く各地に勧進しました。 景気の不振や宗左衛門の病死などもあって事業はなかなか進みませんでした。 |
1932年 | 数多くの人々の寄進と労力奉仕によって荻布宗四朗などの協力を得て新しい大仏がほぼ完成。 |
1933年 | 新しい大仏が完成し開眼供養が行われる。 原型は中野双山。<古式鋳造法である焼型重ね吹きの技法で、鋳造から着色にいたるすべての工程を高岡の工人・職人たちの手で行った記念すべき大作です。 |
1958年 | 円光背が取り付けられる。 |
1980年 | 補修が行われ、通り面より約15m後退した現在の場所に移動しました。 |
1981年 | 大規模な修理をするとともに、4月15日 高岡市指定文化財に指定されました。 |
2007年 | 経年劣化による表面のひび割れや腐食等を受け、再び大規模な修理が行われ現在に至っているとの事です。 |
江戸時代にはまだ時計が普及していなかったので町民に時刻を知らせる必要があった。
それは規則的な生活を営み、共同社会の秩序を保ち、生産の能率を上げ災害を防止する上にも重要であった。
当時の高岡町奉行寺島蔵人は時鐘の鋳造を計画し藩の許可をえたところ、金屋町は前田利長以来の藩の厚い保護に報いるためその鋳造を願い出て文化元年1804)に出来上がった。
そうして9月11日午前6時から二番町会所でつきはじめたが、間もなく鐘に割れ目が生じ改鋳にせまられた。
坂下町の鍋屋仁左衛門は、高岡鋳物の声価を傷つけたことを悲しみ、自ら多額の金品を寄付し、浄財を集め工人を督励などして文化3年(1806)7月遂に見事な大鐘を完成た。
これがこの時鐘で、口径112糎・唇厚18糎・高さ197糎・重量2250瓩あり、鏡面一杯に皆川淇園の筆になる銘が刻んである。
以来朝夕高岡町民に親しまれてきたが、明治12年以降数度の火災により移転され、その後大仏寺に寄付されて今日に致っている。
昭和46年7月 高岡市教育委員会
馬頭観世音菩薩
高岡新西国三十三観音札所
二十九番札所
馬頭観世音菩薩
頂いた由緒書きによると、ここに安置してあります木製の佛頭は明治 33年(1900)高岡の大火災に合いそれまで 総金箔舟形光背に千体佛を配した大佛 尊像でしたが、木造の哀しさで佛頭だけが焼け 残ったのでございます。
お顔に残った疵は「火の用 心」を戒めておられます。
周囲の掛け佛は 阿弥陀如来にそなわめ十二の恩徳を表わし たもので、昭和8年(1933)再建の時に 大佛尊の光背に掛ける予定で鋳造され たのですが、中止になった為、昭和56年 (1981)の昭和大修理の時に御尊顔の 周りに並べて祀ったのであります。
回廊の内壁に掛けてあります十三枚の佛画 は昔交通の要であった高岡駅前に「七本杉」と 言って樹齢数百年の神木と祟られてい た、杉の大木がありました。
その古木の板を使って当市ゆかりの画伯達 が心を込めて描かれたもので市内の篤志家に より昭和27年(1952)寄進奉納されたもの でありますとあります。