勝興寺

勝興寺のアイキャッチ画像

勝興寺へは高岡駅より氷見線に乗車し、伏木駅で下車して行きました。
西へ500メートル位歩いたところにあり、北陸の名刹なだけに至る所に標識がありすぐわかりました。
祭日の割には参拝客はまばらでした。
浄土真宗の寺院では、通常御朱印がないと聞かされていましたが、御朱印の窓口が設けてあり頂くことが出来ました。
参拝時は太陽が勝興寺の後方に位置していてあまり良いアングルの画像が撮れなかったです。

参拝日 令和元年5月3日
所在地 富山県高岡市伏木古国府17-1
山号 雲龍山
寺号 勝興寺
宗派 浄土真宗本願寺派
本尊 阿弥陀如来
創建年 文明3年(1471)
開基 蓮如

勝興寺境内は天平(729-749)の昔、越中国庁の所在地であり、万葉の代表歌人
大伴家持』が5年間国守としてこの地に赴任し、多くの秀歌を万葉集に詠んでいます。
境内には大伴家持の歌碑や越中国庁跡の碑があります。

参拝時頂いた資料によれば、勝興寺は文明3年(1471)に本願寺八世蓮如が越中国砺波郡に営んだ土山坊を起源とします。
戦国期には同群安養寺(現小矢部市末友)に伽藍を営み、越中一向一揆勢の旗頭として威勢を誇っていたが、天正9年(1581)に織田方の地元武士により堂宇を焼失され、同12年(1584)現在の地に伽藍を再興しました。

再興後の勝興寺は、慶長2年(1597)以後、越中国の触頭の地位にあり、江戸時代を通して加賀殿舎群と密接な関係を保ちながら、広壮な伽藍を築き上げました。
境内は、奈良時代の越中国庁跡と伝承される所で、万葉集を編纂した大伴家持が国守として5年間在任し、その間に詠まれた多くの和歌が今に残されています。

周囲には土塁と空濠を巡らせ、東辺中央に総門を開き、門内の南寄りに唐門、中央に鼓堂、北寄りに式台門を配しています。
唐門の後方には本堂、経堂、御霊屋等の堂舎群、式台門の後方には大広間及び式台、台所、書院及び奥書院、御内仏の殿舎群が建ち並んでいます。
17世紀から19世紀にかけて建立された建造物が数多く残り、近世真宗大寺院の伽藍の様相を今に伝える貴重な遺産ですとあります。

ユミちゃん
ユミ

境内には殿舎群、堂舎群、伽藍構えとして、唐門、式台門、総門、鼓堂、宝蔵等計12棟の国指定重要文化財が存在します。

本堂は寛政7年(1795)建立、地方に所在する由緒ある古刹の本堂として破格の規模と形式を備え、江戸時代中期以降の傾向を代表する本堂遺構の秀例として高く評価され、昭和63年(1988)に指定されました。

唐門は明治26年(1893)に京都興正寺から移築され、正背面に唐破風を設けた大規模な四脚門で、明和6年(1769)上棟の棟札が残されています。
各所に用いられた絵様や彫刻は時代の特徴をよくあらわしており、本堂と同時に指定されました。

殿舎群は大広間の元禄4年(1691)を始めとして18世紀に、堂舎群は文化年間(1804-1814)に、伽藍構えの各建物は、寶永2年(1705)から慶応2年(1866)の間にそれぞれ建立され、近世真宗寺院の構成とその過程を伝える貴重な建築群として、平成7年(1995)重要文化財に指定されました。
また、大広間、及び式台、書院及び奥書院は、それぞれ室内の意匠に特徴を備えた、上質の住宅建築としても高く評価されているとあります。

文明三年(1471)本願寺八世蓮如が北陸布教の途中、砺波郡土山(現在の福光町土山)に一寺を建て土山御坊と称した。
これが勝興寺の前身である。


明応三年(1494)に砺波郡高木場(福光町高窪)、永正十六年(1519)砺波郡末友安養寺村(小矢部市末友)へと移転し、それに伴い勢力を拡張し、井波の瑞泉寺とともに一向一揆の中心として活躍した。

天正九年(1581)に木舟城主石黒左近によって諸堂舎を焼かれた勝興寺は、天正十二年(1584)に佐々成政を介して神保氏張より現地古国府の地の寄進を受け翌年、越中に入った前田利長も制札を与え安堵した。


この頃より勝興寺は加賀藩および本山と密接なつながりをもつようになる。
第十三代昭見の室は本願寺准如の女、第十四代円周は准如の男、その室は加賀藩三代藩主利常の養女、第十八闡真は六代藩主吉徳の八男で後に還俗して十一代藩主を襲封し治脩と名乗る。


十九代闡郁は本願寺法如の男、室は治脩の養女、二十一代は本如の男等である。

このような勝興寺の格式や来歴を物語るものとして数多くの寺宝がある。
武田信玄浅井長政豊臣秀吉佐々成政神保氏張等の文書、蓮如顕如等の筆跡や文書は一揆活動華やかなりし頃の好資料である。


絵画、工芸品は縁組みの際持参された大名道具、公家調度品であり、洛中洛外の図、日月の図屏風を始めこれらの寺宝のうち、工芸品二十八点、絵画・彫刻十六点、書跡十三点、古文書百八十点が富山県文化財に指定されている。

重要文化財 
勝興寺唐門附 棟札一枚・旧獅子口一個
昭和63年(1988)1月13日指定

この唐門は、「取調書」(勝興寺蔵明治に十九年、再調)には明治二十六年に建築されたと記録されている。
一方では京都「興正寺」の唐門を買い受け北前船で運び現在地に移築したという伝承もあった。  
このように唐門の建築年代や由来等については従来は不明であったが、その構造や意匠が勝興寺の他の建造物群とは異質であるとの指摘もかねてよりなされていたところ、近年の調査により建築年代と由来等が判明した。  
昨年の調査で寺務所より発見された棟札と本堂床下に放置されていた旧獅子口の箆書きにより、明和六年(1769)に京都「興正寺」で建築されたことが確認された。  
また、小屋裏等には移築された痕跡が明瞭に残っていたことにより明治年代に勝興寺に移されたことも推定された。  
この門は、銅版葺切妻造屋根の前後を唐破風造で通した「前後唐破風造」という全国的にもあまり類例のない形式をとり、全体的には木太い均整のとれた建物で、牡丹唐草の腰欄間や雲波龍の欄間あるいは、妻飾りの太瓶束の笈形等の各所にもちいられた絵様や彫刻は時代の特徴をよくあらわしている。

重要文化財
勝興寺本堂
構造・形式…桁行11間・梁間11間・入母屋造
昭和63年(1988)1月13日指定

この本堂は、前田家11代藩主治脩の援助に よって寛政7年(1795)に建てられた。  
治脩は、6代藩主吉徳の八男で、延享3年(1746)勝興寺に入寺し、明和6年(1769) 還俗して藩主を継いだ。  
勝興寺本堂の半面、構造、形式、細部意匠は、 京都の西本願寺 本堂(1760年建築・重文)を 範例にして建てられており、県内はもとより我が国の浄土真宗寺院本堂遺構のうちでも破格の 規模と形式を備えた建物である。
また、真宗寺院は、江戸時代中期 以後、建て替えに伴い規模を拡大し、内部を壮厳化する傾 向が見られるがこの本堂はそれを顕著に示して いる。
堂の主要部は、桁行、梁間ともに九間で、梁間を前方六間、後方三間に区分し、外陣、内陣とする。
外陣は二間の「矢来」と四間の外陣に分け、内陣は外陣より一段高くし、中央の三間を 「御内陣」その左右三間づつを「余間」とし、余 間の外を「飛檐の間」「さやの間」とする。
このような間取りは真宗本堂の大型例の典型である。

タイちゃん
タイちゃん

ユミちゃん、勝興寺さんの七不思議って知っているの。

ユミちゃん
ユミ

事前勉強が不足していて、あまり現認が出来なかったです。
一応七不思議は列記しておくね。

1、実ならずの銀杏 本堂前庭
2、天から降った石 本堂前
3、水の枯れない池 本堂左横
4、屋根を支える猿 本堂屋根裏の角
5、魔除けの柱 本堂左奥
6、雲龍の硯 寺務所
7、三葉の松 本堂右横