新治神社

新治神社アイキャッチ画像

新治神社へ行くのに、あいの風とやま鉄道の生地駅で下車しました。
1.5キロメートル程、西にあるのですが巡回バスがあったので利用しました。
境内に入ってすぐ右手に社務所があり、御朱印を頂きました。
社殿の上部には鷺が巣を作っていて鳴き声がうるさかったです。
境内の左側には郷土の偉人の銅像があったり、民謡の立て看板があったり、大変広い境内でした。

参拝日 平成31年3月24日
所在地 富山県黒部市生地716
御祭神 譽田別尊・建御名方命・少彦名命
配祀神 伊奘諾命・伊奘冉命・大加牟豆身命・軻遇突智命

新治神社の創建は明らかではないようです。
古い書物によると、およそ天智天皇(662-671)の頃ではないかと伝えられています。
『三大実録』には元慶7年(883)12月、『越中国正六位上新治神社』に従五以下を授けたとあります。
祭神は譽田別尊・建御名方命・少彦名命の三神を合祀した国史現在社であったとの事です。

元は新治神社と称したが、中古より八幡大菩薩または新治神社八幡宮とも称され、 国家に大事のある時には、勅使の奉幣や祈願がなされたことも多かったようです。


大宝3年(703)高向朝神天武天皇の皇子経営王奉幣して、宝祚無窮国家泰平の祈願をしました。
慶雲2年(705)甲辰人麿勅使として来り、忠孝の二字の書を奉っりました。
養老2年(718)に僧行基
天平20年(748)に国守大伴家持。 
嘉祥2年(849)に、国守和気朝臣
仁寿3年(853)に国守春日朝臣。
天徳元年(957)に越中守尹生がそれぞれ勅使として奉幣しました。

ところが、久寿元年(1154)8月10日に発生した文治地震の大津波によって本町すべてが海と化しました。
新治神社、全明寺など370余戸の家屋が海中に没して「死傷者無数」と記録されています。
新治神社には津波で新治村が沈んでしまった様子と、さらに津波から約80年後に海岸線が復旧した様子が描かれた2枚の絵図が見つかっています。
文治3年(1187年)に源義経が平泉に逃れる途中、この地を通っていますが、三日市に泊まり、村椿の「上野川」に立ち寄ったという伝承がありますが、 新治神社の記録などにはありません。
つまり、新治村が復興していなかったと推測できるのです。


弘長2年(1262)になって、旧社地の東1kmほどの場所(現社地)に八幡宮(新治神社)を復興しました。
一帯は、新たに生まれた町ということで、「生まれ地」と呼ばれ 、これが生地という地名のルーツにもなったとの事です。
壮麗な社殿や石造りの大華表が怒濤に巻き込まれるなどして、その社宝などはすべて流出しました。
以後本町の復活や社殿の再建などに時間がかかり、奉幣は途絶えました。

復興後、後醍醐天皇の皇子宗良親王が征東された際には参詣され、自筆の新撰和歌集を奉納されました。
明応元年(1492)に足利義植が本社に奉幣して戦勝を祈り、また「くじ」で方向を定め、西奔して大内義興のところに寄られたといわれます。
永正5年(1508)7月に将軍足利義植が本社に社領二百石を寄進し、また高倉主税藤原盛央を神主としました。
天文23年(1554)上杉謙信攻略の際、宝物や旧記すべてが灰燼となりました。
元亀3年(1572)に上杉謙信が本社の造営費を納め、また鏡一面と幣帛を奉っり四百石の邑を社領としました。
天正13年(1585)に佐々成政がその社領を納めたという。

この後しばしば火災や水害のため、旧態は大いに変じ、官民の信仰も遠のいたとの事です。
現在の本殿は慶応2年(1866)、拝殿は明治33年(1900)の建立だそうです。

タイちゃん
タイちゃん

三大実録とは?

ユミちゃん
ユミ

平安時代の歴史書で、宇多天皇の勅命で、
藤原時平・大蔵善行らが撰。
延喜元年(901)成立。 清和・陽成・光孝天皇の
三代30年間を編年体で叙述した日本三代実録の
一つだそうです。

ユミちゃん
ユミ

毎年2月7日は「北方領土の日」です。
択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島のいわゆる 北方四島からの引き揚げ者が北海道に次いで全国で2番目に多いのが富山県です。
その9割が暮らすのがこの新治神社の生地地区です。
早期返還されれば良いですね。

付近の方の話しによれば、白雲山龍泉寺は浄土真宗東本願寺派の寺院です。
元は真言宗高野山金剛峯寺の末寺として、寛喜2年(1230)に越中国新川郡臼森袖沢池のほとりに建設されたと伝わります。
それが天正5年(1577)に兵火のために焼失し、
天正12年~13年(1584-1585)に顕如上人の法号を受けて、真宗本願寺の末寺として芦崎村に本堂を再建されたとのことです。
龍泉寺には龍の彫刻が三つあり、中央にある素朴で古ぼけた一刀彫りの龍は、左甚五郎の作と伝えられています。 

この黒松は樹高18.7メートル樹幹6メートル樹齢約400年と推定される巨樹で
県内まれにみる容姿端麗な松としてよく知られているそうです。
戦国時代、越後から当地に来た僧侶姿の上杉謙信が病気のため歩けなくなりました。
これが新治の神のおつげにより、この地に湧き出た霊水につかってなおったので謙信は、この神霊に深く感謝してこの黒松を植えて立ち去ったそうです。


そのため、後世になって土地の人々はこれを『謙信手植えの松』と呼ぶようになったと伝えられている。
その後、永禄3年(1560)庚申の年、一乗上人がこの地に来て霊泉の効能を聞き、この松の下に庚申仏の堂を建て浴場を開設したとのことです。
以後この松を『庚申松』ともいっているそうです。

謙信手植えのマツ
謙信手植えのマツ

この台場は、外国船渡来による海防上の必要から加賀藩が嘉永4年(1851)10月に着し、11月に完成した。
工事記録によると土を運んで台場の原型をつくり、この上に芝をはり、まわりを杭、竹、なわで囲った。
正面入口に小刀門を設け台場の上部に5か所の大砲を置く場所が作られ、船で大砲が運ばれたそうです。


台場の長さ63メートル、幅8メートルあり、弧状の形をしている。
これは幕末に作られた台場の上に当時の設計図に基づいて復元したものであるとのことです。
砂の下には台場の原型がそのままの形で保存されているようです。

生地台場
生地台場