姉倉比賣神社

姉倉比賣神社アイキャッチ画像

姉倉比賣神社はあいの風とやま鉄道呉羽駅の南東約100メートルの位置に鎮座しています。
『あねくらひめじんじゃ』と発音します。
私は呉羽駅より徒歩で参拝しました。
大相撲で人気の『朝乃山』の地元なので幟も多く目立ちました。

参拝日 令和元年11月2日
鎮座地 富山県富山市呉羽町1813
御祭神 天照皇大神
    姉倉比賣大神
    豊受比賣大神
    大国主大神
    武御方主大神

いただいた栞によると越中に姉倉比賣という女神がおられました。
我々の郷土を舞台として活躍され、私たちには一番関係が深く、また私たちの祖先ともいうべき神様であります。


ここは、みどり深く一面に美しく花が咲き乱れている船倉山(大沢野町南方の山)人の近づくことのできない天国のようなところです。
そこに姉倉比賣というそれは美しく、けがれの知らない比賣でありました。

月日はながれ、姉倉比賣は呉羽山のふもと大竹野(今の呉羽町)にまいられ新領土として開拓に勤められたのです。
これからは、いろんな苦しみや、生活に耐えなければならないと考えられ、自らの手で舟のかじをこぎ、流れの早い神通川を渡って大竹野にまいられたのです。
お供の女神たちもあまりにも立派な比賣のけなげさにとめることもできませんでした。
大竹野にまいられた姉倉比賣は布を織る道具を工夫しお仕事にかかられ、部落の人たちも田や畑を一生懸命に耕し毎日なごやかな生活の日々をおくられたそうです。
比賣の美しい心は人々に慕われ、娘たちは機織りを教えてもらったり、また年若い比賣は青年たちにも大そうな人気があったそうです。
『ここは、いずこぞ大竹野よ 機を織ります、わたくしは みんなきれいにするために心もともに トンカラリ トンカラリ』

姉倉比賣が大竹野にまいられましてからも過去のことはいっさい忘れご自分で機織りの道具を工夫し仕事をなされ村人たちにもその指導をなさいました。
蜆ヶ森貝塚のたくさんの貝殻がみな蝶の姿になって窓から飛来し、比賣の機織りを助けたという美しい伝説も伝えられています。
生きていくというこの姿は献身的な努力と強い心の張りを持った女神であり、かつ、やさしく、たくましい比賣の姿が浮かびでています。
このようにして大竹野は次第に開けて豊な村になっていったのでした。
とあります。

当社は延喜式内社の一つで、越中の杜の中でも最も古い神社である。
神社の創建の年代は明瞭ではないが、伝えによると第十一代垂 仁天皇の御代、越中に阿彦の乱が起こり、大若子命が鎮圧においでになり、当社御祭神の霊夢を受けられ、陣所の四方に祠を建て天神 地祇を祀り戦勝を祈願されたところ輝かしい勝利をおさめられた。


●670年頃、大海人皇子は当社祭神のご加護により、社地の大竹を用い旗竿にし戦われ大勝利後即位された。
後の天武天皇で社名を御下しになって大竹大明神と称するようになった。
●若宮伊呂具が天武11年(682)に御戸代旧官幣宜旨を賜る。
●天平9年(737)詔があって当社に仏像経典を納め、南方に(現在の源平山一体)一宇を建立し、神事に加わらせた。
●應永3年(1396)当社神官が京都へ上り、二條殿のお引立てに より大宮司の位を賜った。
当時二条殿の眼病治癒を二日三夜祈願したところ、見事快癒したという。
その報謝として当社に初穂、現米永久寄付され、これによって住民の信用も深まり、氏子持宮も増加し、文明年中には若宮家の分家が新川辺にまででき、当社の信仰がひろがったという。
●1400年頃、安部晴明の裔安部主計が越中に下り農業の指導に当たる。
女子には養蚕紡織を教えた。
其間、堤を築き道を開き橋を架けひたすら教導に尽せり。
当社の春祭ご神幸は、安部主計が居住した頃に始まった。


●天文6年(1537)上杉謙信、越中最古の社と仰ぎ、翌天文7年 (1538)当社に願書を奉納し、社領二百石を寄進した。
●万治3年(1660)雷火のため社殿 等すべて焼失。
●明治3年(1870)神殿再建。
●明治30年(1897)拝殿再建。
●昭和30年(1955)神殿鞘堂建立。
●昭和53年(1978)9月拝殿修復。
●平成15年(2003)10月19日鞘堂弊殿改築。
●平成28年(2016)10月29日拝殿改修。

若宮山『丸富町公園付近』を中心に東は諏訪社、西は姉倉比賣神社、南は神明社、北は田中社である。
諏訪社は明應年中(1492-1500)。
神明社は明治7年(1874)5月11日。
田中社は享保5年(1721)7月11日にそれぞれ当社に合祀された。