井波別院 瑞泉寺

瑞泉寺アイキャッチ画像

瑞泉寺はJR城端線城端駅の北東約8キロメートルの位置にあります。
私は城端別院善徳寺を参拝後タクシーで向かいました。

参拝日 令和元年9月20日
所在地 富山県南砺市井波3050
宗旨 浄土真宗
宗派 真宗大谷派
山号 杉谷山
寺号 瑞泉寺
寺格 別院
御本尊 阿弥陀如来

頂いた栞によると、当寺は本願寺第五代綽如上人の開創です。
永和年中(1375-1379)綽如上人は杉谷(現在の八乙女山)の山中に草庵を結んで、宗祖親鸞聖人の教義を弘められておりました。

当寺、中国から国書が朝廷へ送られてきましたが、その文字が難解を極めたため、青蓮院門跡は、その解読に博学多識の綽如上人を推挙されました。上人はただちに越中から上洛され、かくて国書の意義が明らかになり、返書までしたためられ、ようやく国の体面を保つことができたのです。

天皇は大変に喜ばれ『周圓』の号を授けられました。
このことを御縁として、宮中において上人から『仏説無量寿経』の講義を自ら進んで聞かれ、上人の深い学問に益々感銘を受け、聖徳太子絵伝八福と、太子二歳の南無仏木像一軀を下賜されました。

また上人に北陸真宗の中心寺院建立の願いがあることを知られた天皇は、勧進状を認める料紙を授け、勅願所として寺院を建立することを勅許されたのでした。聖旨を奉じて、明徳元年(1390)越中へ帰られた上人は、直ちに勧進状を作られ、広く加賀、能登、越中、越後、信濃、飛騨、6か国の有縁の人々から浄財を募られ、斯くして地域の教化の中心道場として、瑞泉寺が建立されました。

上人が天皇のお召しにより、杉谷草庵から御上洛の途中、御乗馬が大地を蹴って長くいななき、いくら鞭をあてても進みませんでした。
不思議に思われた上人は、従者に命じてその地を掘らせられると、地下から泉がこんこんと湧き出たという事です。(臼浪水に残る馬蹄石と泉は当時のもの)

このことによって当地が井波と名付けられ、寺が瑞泉寺と号せられたのです。

上人は瑞泉寺を拠点として教化にあたられましたが、明徳4年(1393)4月24日御年44歳の若さで、この地で御往生されました。
瑞泉寺大谷御廟は、我が国唯一の綽如上人の墓所です。

この寺は、北陸の浄土真宗信仰の中心として多くの信者を集め、又越中の一向一揆の重要拠点ともなった寺院となっていきます。
15世紀末には、井波城と称しました。
福光城主石黒氏を破るとともに、井波の町は寺内町として発展します。
16世紀、佐々成政の軍勢に攻められ、焼き払われてしまいます。
その後城端北野に移った後、再び井波へ戻り、現在の場所に再建されました。

現在の本堂は、明治18年(1885年)に再建されたもので、木造建築の寺院としては、日本でも有数の建物です。
井波大工の棟梁松井角平恒広を中心に多くの大工、彫刻師が完成させました。
太子堂は、大正7年(1918年)、井波建築、井波彫刻、井波塗師の優れた技を集めて再建されました。
棟梁は松井角平恒信で、大工34人が建築にあたり、7年がかりの大工事でした。
大門(山門)は、天明5年(1785年)、京都の大工によって建て始められましたが、京都本願寺の再建工事が始まったため、井波大工がその後を引き継ぎ完成したものす。

瑞泉寺御朱印
瑞泉寺御朱印