龍尾神社

龍尾神社アイキャッチ画像

龍尾神社は、あいの風とやま鉄道、入善駅より東南東約4キロメートルの位置にあります。
国道8号線沿いの入善警察署前よりほぼ直線の道路があって、約3キロメートル位の位置です。
私は近くでもあり自転車で参拝しました。

参拝日 令和元年8月31日
    令和元年9月6日
鎮座地 富山県下新川郡朝日町三枚橋381番
御祭神 素戔嗚尊(龍尾権現)、天照皇大神(神明宮) 、大鷦鷯尊(若宮八幡)
建築様式 本殿(神明造) 、幣殿(平屋造) 、拝殿(入母屋造)

創立年月は不詳であるが、古くは藪南(やぶなみ)の社といい、 その後に龍尾社と改称したと伝えられている。
天文年中(1590年代)領主、館 弾正より社領として米30俵の寄進があったという。
その頃、鳥居前(旧社殿南向きの鳥居)に官道が通じていて、政治・経済・文化の要所として 繁栄していた。

しかし黒部川の氾濫が激しく、愛本廻りにて官道が付け替えの節より、次第に寂れてきたと 先祖由緒書上甲帳に記録されている。
貞享2年(1685)の越中神主由来書付写之帳に、神明宮であったことが記されている。
宝暦9年(1759)の高岡五社神主社家持宮書上帳に、龍尾権現・神明宮・若宮八幡が記載されている。
従ってこの70年の間に龍尾権現(素戔嗚尊)が勧請されたことになる。

由緒など不祥であるが、御神体が虚空蔵菩薩の姿であることから、当時の石動山信仰(能登国天平寺) と関わりがあると思われる。
石動山の勧請は300年前ぐらいに盛んに行われた記録があり、当社素戔嗚尊の勧請は1700年代の 初め頃と推定され、明治維新や、大戦後の神道指令を経て今日に至っている。

白羽の矢と大杉(矢止めの大松)

戦国時代、上杉景勝は八千の軍勢を率いて春日山を出発し、宮崎城を攻めた。
この時に上杉方の河田という武将が二百の兵を従え、山を越えて南保城・大家庄城を攻めた時、 白羽の矢が飛んできて境内の大杉に刺さったという。
その矢を抜き取ると、大風や洪水の不幸や災難がおきると伝えられた。
大正時代には大杉はなく、大松の高い木の上に白いものが見えて、それが矢であろうと見上げたという。

館の城

戦国時代、小川弾正(舘 弾正)がこの地に城を構え近隣を従えて勢力を伸ばし、社領を寄進 したと伝えられた。
上杉謙信が越中侵攻の際に落城して、近くの寺院に逃れたといわれた。
龍尾権現、天香寺の龍尾山、光栄寺の龍頭山の名称は小川弾正が名付けたものだという。
また、龍尾という呼称の由来は、舘(たち)が『龍』に、細長い微高地の端を『尾』ということから 来ているという説もある。

沙羅(しゃら)のうち

昔から、高倉神主の旧屋敷地内に沙羅場といって、罪人の打首・磔に処したところがあったと 伝えられ、龍尾神社付近の組を『しゃらむき』と呼ばれた。

御神体石の取り合い

昔から、三枚橋村と舟川新村で若宮八幡の御神体石をしばしば取り合いしていたが、どうにも ならなくなり、三枚橋村のある屋敷に置き去りにされたと伝えられた。
その御神体石と思われる天然石の座像が、平成10年に龍尾神社の境内に移転された。