放生津八幡宮

放生津八幡宮アイキャッチ画像

放生津八幡宮へは、あいの風とやま鉄道高岡駅より東新湊駅まで万葉線に 乗車して行きました。
東新湊駅より北西約600メートル位の位置で海沿いに鎮座しています。
大伴家持ゆかりの神社らしくかなりの句碑が見られます。

参拝日 令和元年8月26日
鎮座地 富山県射水市八幡町2-2-27
主祭神 応神天皇
相殿神 仁徳天皇

境内の掲示板によると
天平18年(746)越中国司として赴任した大伴家持が奈呉之浦の 風光を愛して備前国から宇佐八幡神を勧請して奈呉八幡宮と称し、正和年間(1312-)に越中守護名越時有が社殿を造営したと 伝えられる。

室町時代には、放生津が石清水八幡宮領となり、放生津湊に出入りする 船の課役を八幡宮が担うようになった。


明応の政変(1493)を避けた 室町幕府十代将軍足利義材(義稙)が放生津を御座所とした頃、 当宮から出された金塗の神輿が放生津の街を巡行した。

永禄6年(1563)越中一向一揆勢、神保氏、椎名氏連合軍と、 上杉謙信との合戦によって、社殿を焼失するが、まもなく神保長職が 再興したとされ、、
天正9年(1581)には、『放生津八番領町』として、 当宮とその周辺が、放生津の中心地となっていた。

江戸時代には、歴代加賀藩主に崇拝され、
嘉永3年(1850)、 十三代藩主、前田斎泰が参拝した際には、当宮裏手に砲台場を設けるため 視察した。

安政4年(1857)、当地出身の知恩院代七十一世萬誉上人の依頼により 左大臣近衛忠熈が真筆の神額を奉納した。

現在の社殿は放生津の宮大工高瀬輔太郎の傑作で、文久3年(1863)の 再興である。

毎年10月1日、秋季祭礼の神輿渡御に供奉する豪華な曳山は、慶安3年(1650) の創設と伝えられ、文久2年(1862)に、現在まで伝えられる十三町の曳山が 出揃った。


翌10月2日の例大祭日には、境内東側に飾られる築山や地名の由来となった 放生会神事など、古代の素朴な信仰の姿や神仏習合を継承する貴重な民俗行事が 行われる。

同じく場内掲示板によると

御祭神は大伴宿禰󠄀家持卿とのことです。

家持卿は天平18年(746)7月、越中守に任せられ、 天平勝宝3年(751)少納言に昇進して、都に帰るまで 5年間、高岡市伏木一ノ宮の国庁に在任す。

眺望する新湊の勝景をこよなく愛され史僚達と奈呉、 奈呉の海、奈呉の浦、奈呉の江・・・と詠んだ秀歌を 万葉集に遺される。


また郷民に敬神の念を普及せんとの深慮により豊前国 宇佐八幡宮の分霊を勧請して奈呉八幡宮と称さる。

今の放生津八幡宮なり。

氏子は卿を祖神と崇め小社を建て祀るも、老朽甚だしく 太平洋戦中失う。
平成5年(1993)放生津八幡宮社殿百三十年祭を記念して 念願の小社を再建する。
このとき、伊勢神宮第61回式年遷宮、皇太子徳仁親王殿下 御成婚の年なり。

とあります。

放生津八幡宮御朱印
放生津八幡宮御朱印