越中国一宮 氣多神社

氣多神社アイキャッチ画像

越中国一宮 氣多神社にはJR氷見線伏木駅にて自転車をレンタルして参拝しました。
電動自転車でしたが途中きつい所がありました。
伏木駅から北西約1.5キロメートルの位置に鎮座しています。

参拝日 令和元年 9月6日
鎮座地 富山県高岡市伏木一宮1丁目10-1
御祭神 大己貴命、奴奈加波比売命
相殿 菊理姫命 事代主命
御神徳 五穀豊穣、福徳円満、開運、業務繁栄、縁結び、病気平癒、交通安全

境内表示より
氣多神社は養老2年(718)に僧の行基が創建したと伝えられ、また天平宝宇元年(757)に、 越中から能登国が分立した後、越の大社と崇められていた能登の羽咋にある氣多大社を、 越中国府に近い現在地に勧請したともいわれている。

盛時には越中一宮として境内の周囲に神宮寺である徳証寺をはじめとする大伽藍が並立していたと伝えられるが、 寿永年間(1182)に木曾義仲、天文年間(1532-1554)には上杉謙信と二度の兵火で、ことごとく焼失したという。
現在の本殿は、永禄年間(1558-1569)に再建されたと伝えられる。

構造は三間社流造り、柿板葺きで、正面に一間の向拝を付け、軒は二重繁棰である。
斗栱は和様の三ツ斗で、軒下両側の面柱の上は舟肘木を用いる。
向拝の斗栱は同じ三ツ斗で、正面の虹梁の上には彫刻した蟇股があるが、これは後代につけ加えたものと思われる。

向拝の柱及び前面の第一列に方柱を用い、他はすべて円柱である。
正面の三面及び両側面の一面は吹通しとし、意匠は簡単であるが、木割が大きく、全体に雄大な風格を備え県内の本殿中もっとも優れた建築物である。

氣多神社本殿は、室町時代の特徴が充分にあらわれており、作風が優秀であると評価され、昭和6年(1931)1月19日に国の重要文化財に指定された。

境内表示より

天平4年(732年):能登国一宮気多大社より御分霊(大己貴命:おおなむちのみこと)を勧請し、気多大神(けたのおおかみ)として御鎮座たまわり越中国一宮・気多神社となる。

天平18年(746年):従五位下 大伴家持が第2代越中国守として着任(751年まで)
天平宝字元年(757年):能登四郡が分立し、越中国は射水・砺波・婦負・新川の四郡となる。
延長5年(927年):気多神社は、越中国34座の名神大一座として神名帳に記載される。
文治3年(1187年):源頼朝が北陸道及畿内に宣旨を下し源義経を捕らえさせようとしたが、義経は逃れ北陸道に入り如意の渡しを過ぎて北に逃れる。
天文 年中(1550年):上杉謙信の兵火により気多神社が焼失。
天保2年(1645年):加越能大守 前田利常が気多神社を崇敬し、神殿・拝殿などを再建。
慶安3年(1650年):前田利常が社領十万石を寄進して子 綱紀の安全息災を祈願。 
明治2年(1869年):廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)の令により、気多神社の本地仏を越中国分寺跡の薬師堂へ遷す。
明治6年(1873年):縣社に列せられる。
昭和6年(1931年):文化財保護法により、本殿が国の重要文化財に指定。
昭和25年(1950年):社殿修理のため、本殿の解体工事に着手。工事費340万円。
昭和51年(1970年):本殿の屋根柿葺(こけらふき)替工事完了。
平成8年(1996年):気多神社のにらみ獅子、高岡市指定無形民俗文化財に指定。
よって、当社は越中国一宮と称し、地名も一ノ宮。

越中には、一宮と自称する神社が四社あるが、当社がその一つ。
国府の移動や、勢力の変化によって、一宮も変遷したのだという。
他の一宮は、高瀬、射水、雄山の三社。

タイちゃん
タイちゃん

ユミちゃん、他の一宮には参拝したことがあるの

ユミちゃん
ユミ

四社とも参拝しているのだけど、御朱印頂いているのは
他には射水神社と高瀬神社だけです

氣多神社本殿の横にある神社です。
越中国司として現在の高岡市伏木に赴任した大伴家持を祀る。

大伴家持の没後1200年にあたる昭和60(1985)に、地元の有志による大伴家持卿顕彰会によって創建された。
大伴家持は遺骨や遺品がないため、生誕の地である奈良、越中国庁跡、越中国守館跡、最期の地である多賀城、 遺骨が流された隠岐の5か所の土を壺に入れたものを神体としている。

氣多神社御朱印
氣多神社御朱印