越中宮崎鎮座 鹿嶋神社

越中宮崎 鹿嶋神社のアイキャッチ画像

このブログでは富山市の鹿嶋神社の参拝の記事があるので標題を越中宮崎鎮座 鹿嶋神社としました。
越中宮崎鎮座 鹿嶋神社はあいの風とやま鉄道、越中宮崎駅の西1200メートル程の位置にあります。

私は自転車で参拝しました。
境内には熊や猿の出没の記述があり、ゆっくりの参拝はあきらめて早々に帰りました。
御朱印については電話するように表示があり、そこに電話して5分間ほど待って書いて頂きました。

参拝日 令和元年8月31日
鎮座地 富山県下新川郡朝日町宮崎1484
御祭神 建甕槌命

伝承では、大昔、祭神のタケミカズチの神が、沖にかすむ能登を巡り はるばる海を渡って宮崎に岬に着き 辺地を鎮め、東漸の祈りを捧げた沖 の島に社があった。
これが海の侵食 によって現在地に移されたものと言 われる。

鹿嶋神社は、宮崎城の地に位置す るところから、要害の鬼門よけと、 屋根からの攻口を守る禁足地として 境内の鹿島樹叢とともに、歴史の城 将や加賀の前田氏に保護され、佐味 郷(朝日町内)の守護神ともなって いた。  

現在は宮崎地区の氏神として祭ら れ、春の例祭には朝日町指定の無形 文化財「稚児舞」が家々をまわる。

鹿嶋神社で頂いた栞のようやくです。
鹿嶋神社は能登から海を渡って来られた建甕槌命が祭神です。


古事記の中に国譲りの一場面があり 出雲の国で建甕槌命が力競べを挑む建御名方命は恐れをなして出雲から能登半島を経て 海を渡り、信濃の国諏訪に逃げ込む物語です。
この建甕槌命が執拗に追跡する能登から越後への逃走経路は諸説ありますが 神度『かみわたり』神社という当社の旧名や由来から古事記との関係性が指摘されています。

相殿に天満社、白髭社、日吉社、諏訪社、見崎社を祀ります。

近年社務所地内から翡翠の勾玉の完成品が発見され、その勾玉は古墳から出土される 勾玉と同程度のすばらしいものです。
古代の神社祭祀と何らかの関係が推測されます。
そして、この勾玉の発見は勾玉工房と宮崎の住民の生活との接点を示す重要な手掛かりと 考えられます。

当社には四躰の海中出現と伝承の古神像が祀られ、一躰の御神像には、亭禄三年(1530) 6月29日宮崎村藤太夫と墨書の銘文があります。
この藤太夫とは、当社開闢以来神職を勤めてきた九里藤太夫(または東太夫)家で、 九里の苗字も元から持っていたと伝えられます。


この九里家には『死』『産』にかかわる物忌みが伝わっています。
物忌みとは神祭からケガレを排除することで、律令国家成立とともに生まれ、弘仁式(830年施行) の中にある物忌みを模範としています。

また、さらに由緒書には神々を仏教に帰依することを説く空海の伝承と三幅の本尊が伝わります。
親鸞と関係深い日丸御名号も伝わり、神祇信仰から神仏習合への転換の経過も垣間見ることができます。
明治天皇北陸御巡幸の際は、御小休所となりました。

照葉樹林の鬱蒼と茂る明神林『鹿嶋樹叢』、日本海に浮かぶ沖ノ島、中ノ島、辺ノ島と 海と山の広大な自然を神域としています。
旧北陸道に面した拝殿、そして徒歩で15分の明神林の中腹に位置する奥の院、その他 手刀男神社、大日社、天満社の摂社があります。

境内はもと16290坪の広さの、七堂伽藍で、新川群佐味の郷の守護神として 19ヶ村、宮崎村及び出村の境村、笹川村、横尾村、南保村、殿村、下山村、東草野村、 道下村、平柳村、吉原村、目川村、木根村、青木村、荻生村、内山村、浦山村、栃屋村、 若栗村の惣社『延宝年中社寺来歴』で毎年4月8日には各村々から参集して祭典が行われました。


その後変遷を経て宮崎村社鹿嶋神社となりました。

戦国時代にそれまでの神宝、文献など資料の殆どを戦禍により焼失しましたが、近年 新資料の発見でその歴史が徐々に明らかになっています。
その中の加賀藩に提出された由緒書には、かって延喜式式内社、『神度神社』であったこと、 また朝廷より折々勅使も相立ち、国司方も時々奉幣と記され、信仰的に国家体制に組み込まれて いたことがわかりました。

また加賀藩の郷土史家森田柿園の郷土志徴や越中国式内当旧社記の中にも詳細に記載されています。
現在の境川の古名は神済川『神度川』と述べられ、その古くは親不知沖合の荒海を神済とした説もあります。
弘仁10年(819)の太政官符布には北陸道神済以北と記され、当時の政権の政策上は北陸道の地域を 分ける重要な場所と考えられています。
安寿と厨子王の物語に出てくる宮崎港は、天然の良港で船舶の風待ち、避難に優れ重要な寄港地でした。 縄文時代から既に航海による日本海交流が盛んであったことから公開安全の神としてこの神社の存在が 推測されます。

寿永2年(1183)宮崎太郎は、鹿嶋神社の南側の山頂に宮崎城を築きました。
この宮崎太郎は宮崎党を率い、平家討伐の令旨を受けた木曽義仲とともに、後白河法皇の第二皇子 以仁王の第一皇子北陸の宮をこの宮崎城に奉じて、越中進攻と入京の足掛かりを固めました。
その間当社は木曽義仲奉幣、織田信長、柴田勝家、上杉景勝らから神田が寄進されました。

しかし、国境の攻防にしのぎを削る合戦の拠点となり上杉謙信が宮崎城に進軍した際に 伽藍を焼失するなど戦禍に巻き込まれました。
その後、慶長10年(1605)加賀藩主前田利長の祈願のため明神林を寄進しています。
そして、新川郡が加賀藩の領地となり、前田家より特別な庇護を受け、参勤交代の折は藩主が 駕籠を降りて参詣されました。
当社の名称を江戸時代の絵図では明神、宮崎大明神、鹿島大明神、宮崎観音と確認できます。

富山市佐藤美術館蔵の越中国屏風に明神と記されるのは高岡市二上山にある射水神社と 当社の2社で、越中国一之宮の社格に並ぶと説を唱える研究者もいます。

越中宮崎 鹿嶋神社御朱印
越中宮崎 鹿嶋神社御朱印