西光寺

西光寺アイキャッチ画像

西光寺はJR長野駅の北北西約400メートルの位置にあります。
私は善光寺参拝の帰路、歩いて西宮神社を参拝してから立ち寄りました。
境内は狭いですが像や塚がぎっしりと詰まったお寺様でした。

参拝日 令和元年10月9日
所在地 長野県長野市北石堂町1398
宗派 浄土宗
山号 苅萱山
院号 寂照院
寺号 西光寺
御本尊 二体の親子地蔵尊

善光寺七福神の一番、寿老人が安置されています。

いただいた資料によると、苅萱山寂照院西光寺は善光寺の門前町の中心街にあり 開祖苅萱道心とその子信照坊道念上人が刻んだ二体の苅萱親子地蔵尊が 御本尊として安置してあります。

開祖苅萱道心は仁平の頃(約765年前)、筑前の國博多苅萱の庄に住み、一朝無常を観じて京都に上り、 法然上人の弟子となり、後高野山に登り修行したと伝えられています。
後に善光寺如来のお導きによって、高野山より信濃の地に下った苅萱道心が 、善光寺から南10丁ほどにあった小高い丘に草庵を結び、創建されました 。
日々善光寺に参詣しながら、地蔵尊を刻み念仏を広められたのでした。

善光寺との深い縁で結ぱれた当山は、その昔、善光寺南大門とも称せられ、 善光寺参詣の人々が必ず立ち寄っていく寺として栄えてきました。
また界隈は二代信照坊道念の幼名石童丸にちなんで石堂町と呼ばれ 当山が広く庶民に親しまれ慕われてきたことがしのばれます。

境内には苅萱親子の銅像や塚、信濃新四国霊場石碑、大師堂、長野県最古の芭蕉塚、一茶句碑などがあり、800年の歴史と伝統に支えられた 慈愛の灯が今なお消えることなく受け継がれておりますとあります。

参拝者の求めに応じて、住職夫人が、かるかや親子「御絵伝」(江戸前期作)の説明を始めたのが、昭和40年(1965)代半ばごろとのこと。
50年(1975)代半ば、絵解き研究者らがこれを収録しました。
58年(1983)秋、「御絵伝」(江戸時代中期作)が発見され、平成元年(1989)に修復、開眼供養し、2幅を一貫した「御絵伝」として参拝者の求めに応じ絵解きをおこなっています。

いただいた栞によると絵解きで特に心を打つのが苅萱道心と石童丸の物語です。

今からおよそ八百年前、九州六ヶ国の国守加藤左衛門重氏は、世の無常を悟り京の黒谷に登り法然上人の弟子となりました。
ある夜、延命地蔵尊のお告げを受け高野山へに入ります。
国に残された千里御前は男子を出産し「石童丸」と命名されました。
石童丸13歳の春、父恋しさをつのらせ母と共に黒谷へ、さらに高野山へと長い旅に出ます。

当時、高野山は女人禁制、石童丸は母を麓の宿に残し父を尋ねて山内に入り、奥の院は無明の橋で花桶をさげた僧と出会います。
この僧こそ父・苅萱道心でした。
道心は石童丸がわが子であると知りますが、仏に捧げた身ゆえ名乗ることが出来ず、「尋ねし父は、すでのこの世にない」と告げ、山を下りるよう諭します。
山を下りてみると、母は長旅の疲れからはや帰らぬ人となっており、泣く泣く国に帰れば、姉も亡くなっておりました。
そこで、石童丸は再び高野山に登り、苅萱道心を師僧と仰ぎ信照坊道念と名乗り、三十四年間修行しました。

その後道心は、善光寺如来に導かれ信濃の地に下り、 一寺(今日の苅萱山西光寺)を建立しました。
一刀三礼の地蔵尊を刻み、十四年間常行念仏に励み大往生を遂げられました。
父苅萱の往生を知り道念も当山へ移り住み、父の菩提安かれと苅萱塚を建立しました。
ご自身も一刀三礼の地蔵尊を刻み、親子地蔵尊として本堂に安置されたのです。

西光寺 韋駄天御朱印
西光寺 韋駄天御朱印
ユミちゃん
ユミ

善光寺御朱印巡りの一環で不在寺院の代筆をお願いしました。