国泰寺はJR氷見線の雨晴駅から西南西約2500メートルの位置にあります。
私は雨晴駅より歩いて行きました。
海ごしの立山連峰を見たかったのですが、曇っていて見ることは出来ませんでした。
また、マムシ注意の貼り紙には驚きました。
その上広い境内に参拝者が私一人で怖い気分になって拝観途中であきらめました。
参拝日 令和元年9月17日
所在地 富山県高岡市太田184
宗旨 臨済宗
宗派 国泰寺派
山号 摩頂山
寺号 国泰寺
寺格 大本山
御本尊 釈迦如来
札所 北陸観音霊場 第24番
越中観音霊場 第3番
いただいた栞によると、国泰寺は北陸路には数少ない臨済禅の道場で、臨済宗国泰寺派の大本山です。
開山の慈雲妙意禅師(1274−1345)は、行脚の時、二上山の幽邃の境にひかれて、山中の草庵で独り坐禅に励まれていました。
たまたま通りかかった孤峯覚明(三光国師)に誘われて、紀伊由良の西方寺(現興国寺)の無本覚心(法燈国師)に参じて大悟されるも、まもなく師の遷化にあい、二上山の旧居に帰り、悟後の修行に励まれていました。
やがてその禅風を慕って雲水が集まり、嘉元2年(1304)には摩頂山東松寺を開創されました。
嘉暦2年(1327)には宮中に参内されて後醍醐天皇に法要をお説きになり、 「清泉禅師」の号を賜られ、翌年には「護国摩頂巨山国泰仁王万年禅寺」の勅額を下賜され、勅願寺となりました。
興国3年(1342)には南朝の後村上帝より後醍醐天皇の御肖像がおくられ、「臨幸に代える」との御宸翰ありました。
天皇殿のあるゆえんです。
更に北朝の公明天皇の帰依を受け、康永4年(1345)6月3日、「天に月あり、地に泉あり」の末後の句を残して、72歳をもって示寂されました。
光明天皇より「慧日聖光国師」の諡号を受けられました。
塔を「正脈」と号し、室を「大円」といいます。
その後、守護代神保氏の崇信を受けるも、応仁以後の戦乱により荒廃しました。
二十七世雪庭和尚は後奈良天皇の綸旨を受けて再興するも、天正13年(1585)前田利家に方丈を守山にとられ(利家安堵状)現在地に移ってきたようである。
江戸時代になって、貞享3年(1686)には現在の大方丈が建立され、将軍綱吉は当寺をもって法燈派総本山とし、享保年間には萬壑和尚等によって伽藍の大整備が行われてほぼ現在の形となりました。
明治維新では排仏毀釈の余波を受けましたが越叟、雪門両和尚は山岡鉄舟の尽力を得て、天皇殿の再建をはじめ諸堂宇の修造に努めました。
また、西田幾多郎や鈴木大拙が若き日に北条時敬の勧めにより雪門に参じました。
明治25年虚無僧尺八の妙音会が設立され、法要の時には読経と法竹(尺八)の合奏という独特の習慣があります。
特に開山忌(6月2日、3日)には20名ほどの虚無僧が集まり、古刹に響き渡る妙音は風物詩となっています。
先住心田和尚は「人命尊重」を祈願して利生塔の建立、月泉庭や龍淵池(放生池)を整備し、大衆のために禅堂を開放して団体、個人の座禅指導に努めました。
御開山の「己事究明専一なり」の言葉を奉じて、現在も大衆に開かれた禅道場を目指して励んでいますとあります。
いへとんで さんじおこれる こくたいじ
にはのかしはも いろまさりけり