新川神社へは富山市御朱印巡りの一環として参拝しました。
JR富山駅前で自転車をレンタルして向かいました。
於保多神社、越中稲荷神社に次いで3社目です。
新川神社は富山地方鉄道東新庄駅より北東に200メートル位の位置にあり、近々道路工事があって多少立地状況が変わるようです。
参拝日 令和元年5月18日
所在地 富山県富山市新庄町2-13-47
御祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
御利益 国土経営、農耕、縁結、医療、酒造
大新川命(おおにいかわのみこと)
御利益 新庄守護神、水神、武神、物部氏祖先神
神明社
御祭神 天照皇大御神(天界を治める日本国の守護神)
白山社
御祭神 白山比咩命(縁結び、調和)
金刀比羅社
御祭神 琴比羅神(漁業、航海、交通安全、商売繁盛)
諏訪社
御祭神 建御名方命(相撲、農耕、勝負、水神)
天満社
御祭神 菅原道真公(雷神、学問)
園神社
御祭神 大物主神(宮中の庭園を守る)
頂いた資料を直記すれば、新川神社の歴史は誠に古いとあります。
日本三代実録 という国史に、『清和天皇(五十六代)の貞観9年(867) 越中国正五位大新川神に従四位下を授けき』とあり、新川郡の郡名は御祭神である「大新川命」の御神名から 起こったと伝承され、永年人々の崇敬を受けて参りました。
宮司家所蔵の 宝永3年(1706)新川四社大権現由来書 が伝える伝説によれば、 「新庄村は白鳳3年(673)に老人夫婦顕れ、『我は 面足尊(おもだるのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと) の化身なり、 神の山の清き流れがそそぐこの地を新川と号し守り神と成らん。』と申すや霊験を現され、白鷹となり飛び去っていったという。
それよりこの地を新庄村と唱えるようになった」と記してあります。
今日でも新川神社の社紋は鷹の羽を意匠した「 違い鷹の羽(は) 」であります。
その昔、本社神域は現在の場所より約2キロ北東方向の北陸街道(現在の国道41号線)の沿道である五本榎(ごほんえのき)辺りの 志摩の郷(嶋)八嶋野 に鎮座したしておりました。
累代新庄に住した越中の土豪である 三輪飛騨守長職(ながもと) は天文年間(1532-1555)に 新庄城 (別名、太田新城・辰城)を築城し、城下の鎮守神として産土神・氏神である神々をまつり、社領・神器・ 神宝 等の寄進が盛んであったと伝えられています。
しかしながら古来より交通の要所でもある新庄の地は戦国の時代には戦略上も重要な拠点でもあり、度重なる戦火により新庄城は攻められては落城し、城主は幾度も入れ替わりました。
新庄城の運命と共に神社の社領・神器・神宝も失われ、その縁起、古文書などもすべて灰と化したことは今日に至り惜しまれるところです。
また元和元年(1615)一国一城令によりこの新庄城は廃城となり、奇しくもこの夏常願寺川の洪水のため新川神社の社殿、神宝、神器はすべて押し流されてしまいました。
荒れ狂う洪水の勢いが留まることなく数多くの民家がつぶされていく中、住民たちは今の境内地に集まり、遙かに新川大権現に向かい、 「このところを限界として洪水を留めてくれるのであれば神殿をここに遷しまつりましょう」 と誓を立て祈願いたしましたら不思議にも水はたちまち減退していったので一同歓喜いたしました。
御霊験を現わされた新川神社の神々とのお約束を果たすべく翌年の元和二年(1616)には附近の住民達によって新庄城外の高台である現在地に遷座されたのであります。
この地はその当時はずいぶん高台であったようですが 安政5年(1859)の地震後の大洪水 の土砂にて廻りが埋まり、自然に現在のような平地になったのであります。
その後も幾度かの洪水に見舞われましたが境内には被害はなく、以来近隣の皆さん(新庄・向新庄・荒川)から水神として尊崇され、社殿修理の際は広田郷・針原郷からも駆けつけて協力されました。
永い歴史を有する新川神社は元来新庄城の鬼門に鎮座し、城下を守護したことから厄除けの御利益がある神社として今日まで厄年に当たる人々は正月にお祓いを受け無病息災を祈ります。
また農耕に従事される新庄の人々は水神として崇敬し、五穀豊穣を祈ってきました。
新庄で事業をされる企業は事故や災いが無きように、また運を授かるように導き給えと祈りを捧げてきた、運気向上と生産、発展を司る守護神なのです。
新川神社の歴史は誠に古く、そして現在を通じて未来へと続いて行くのです。
御朱印帳には拝殿入口上面の龍神のスケッチが使われています。