神明宮

神明宮のアイキャッチ画像です

片町の交差点から西茶屋街へ向かって歩いていくと、斎川大橋を渡ってすぐ右手にありました。
久保市乙剣宮の向かいに、泉鏡花の生家があったけど、神明宮の近くには室生犀星の生家があるそうです。

地元では神明宮、愛称を込めて神明さんと呼ばれています。
江戸期には祓宮(はらいのみや)と呼ばれ、金沢城の正月飾りを境内で祓い燃や行事が毎年行われており、金沢の左義長の元祖と云われているそうです。

また江戸時代・元和七年(1621年)に発生した三日三晩踊り続ける伊勢踊りの際には、金沢城から神明宮まで続いたようでした。
昔から中心街とも云える片町が近く、庶民が集まる広場にもなっていたようです。
つまり、加賀藩、一般庶民両方から信奉され親しまれた神社です。
金沢五社の一社であり、日本七神明の一つでもあります。

金沢市内に、江戸時代から鎮座する神社の総称です。
宇多須神社、小坂神社、神明宮、椿原天満宮、安江八幡宮の五社です。
五社ともに近代の社格制度では県社になっています。

石川・神明宮、東京・芝神明、山形・湯殿山神明、大阪城神明、
長野・安曇神明、京都・東岩倉神明、京都・朝日神明の七神明です。

また神明宮は、三神明の一社と云われますが、他の二社は定かでないようです。

参拝日 平成31年2月7日
所在地 石川県金沢市野町2丁目1番8号
御祭神 天照皇大神、豊受姫大神
御利益 悪事災難厄除

頂いた資料によると、神明宮は、創建は不明ですが、古来より神明宮と称し、始め卯辰の摩利支天山に鎮座していました。

延文2年(1357)、今の地に転じました。
慶長5年(1600)、二代藩主・前田利長公が、社地728歩を寄進されました。
寛永6年(1629)、三代藩主・前田常長公が社殿を造営し、重ねて社地433歩を寄進。
且つ、本殿を修復して米100俵を賜り、5代藩主・前田綱紀公は神明宮を氏神とするに至りました。

明治5年(1872)11月に郷社に列せられ、昭和14年(1939)3月に、幣殿、神饌所、斎館社務所、手水舎を改築し、同年5月10日に縣社に昇格しました。

加賀の大社として、歴代藩主、庶民の信仰厚く、祓宮・鈴宮として広く知られています。
親しみを込めて、お神名(おしんめい)さんと呼ばれています。
春秋のあぶり餅神事は、全国只一の悪事災難厄除け伝統特殊神事だそうです。

又、加賀藩始まって以来、毎年正月15日に、金沢城内の諸門及び、藩主の殿中の居間等に掛けられた注連縄・松飾りを、寺社奉行立会いの下、神明宮境内に於いて焼くのが慣例で金沢の左義長の元祖とされています。

神明宮あぶり餅は、300年以上の伝統を有する、悪事災難厄徐伝統特殊神事です。

神明宮あぶり餅は、全国只一の祭礼名物であります。
加賀百万石二代藩主・前田利長公が春秋両度の祭礼を厄徐神事として奨励し、御祭神の御利益を民衆に広める為、祭毎に藩主から献上の米をお餅にして、御幣(お祓いの用具)形にくし刺しにして、広く頒け与えた事が始まりとされ、今では聖火にあぶった餅を食して、身体の災難除け(食べる御守)とし、又、玄関内の壁面の少し高い所に家守を飾って、家の災難除けとする風習が盛んで有名です。

春季祭礼(金沢市内の春祭りの最後を飾る)が終われば初夏へ、秋季祭礼(金沢市内の秋祭りの最後を飾る)が終われば、晩秋から初冬へと季節が変わるとされ、金沢の風物詩でもあります。

神明宮の御神木で、パワースポットでもある神明の大ケヤキは樹齢千年を迎える石川県最大の大ケヤキです。
(樹高33m、幹回7.83m、枝幅25m)で、昭和18年(1943)に当時の文部省より『史跡名勝天然記念物』の指定を受け、今日では金沢市指定保存樹の第一号だそうです。

この神明の大ケヤキは、長年の風雪に耐え今なお枝葉を天空に大きく広げ、樹冠は境内を覆っています。
新緑の春、盛暑の夏、紅葉の秋、厳寒の冬。
四季折々を通じて様々な表情を見せてくれます。

金沢は戦禍にまみえたことのない都市の一つで、街中のいたるところに巨樹・古木・巨木林が残っており、市はこれらの樹々を保存樹に指定し、所有者と一体となって管理保存に努め、緑の多い都市の景観づくりを進めてきたとのことです。

案内板によれば、昭和初期の詩人、中原中也は、金沢で過ごした幼年期にこのケヤキの下で見た軽業を思い出し、後に有名な詩「サーカス」を作ったといわれています。

また、金沢三文豪の一人、室生犀星も幼年期を近くの寺院(雨宝院)で過ごし、自伝的作品『幼年時代』には、「私は寺の廊下の屋根越しにお神明さんの欅の森を眺めていた」と書いているそうです。
辛かった日、楽しかった日、境内で思索にふけるなど、幼年期の人格形成に多くの影響を与えたと云われているそうです。

神明宮の御朱印
神明宮の御朱印