御朱印

伏見寺

伏見寺のアイキャッチ画像です

金沢市には、二泊の予定で神社仏閣 御朱印巡りにやって来ました。
1日目の2月6日は、金沢駅で下車して安江八幡宮、久保市乙剣宮、尾山神社、尾崎神社、石浦神社、石川護國神社、金澤神社と7寺社を参拝しました。
最終日の7日は神明宮を参拝し、次に伏見寺に向かいました。
500メートル位歩いたでしょうか、大きな通りに面していてすぐにわかりました。

参拝日

参拝日 平成31年2月7日
所在地 石川県金沢市寺町5-5-28
御本尊 阿弥陀如来
山号  行基山
宗派  高野山真言宗

幸か不幸か何とも言えませんが、参拝客が私一人だったので、
拝観料を払って年配の女性に色々と説明を受けました。

伏見寺の由緒

抑々、行基山伏見寺に安置し奉る本尊阿弥陀如来芋堀籐五郎尊夫妻の由来を紹介したいと思います。
頂いた資料などによると、今から1千年余の昔養老年間、金沢の南端山科の里に、芋堀籐五郎尊と呼ぶ農夫が 住んでいました。
籐五郎尊は心が清くて、欲がなく村人たちからたいそう親しまれ尊敬されていたそうです。
籐五郎尊には御夫人がいらっしゃいました。

御夫人は、大和国初瀬の長者、生玉右近の娘さんで、日頃信仰する長谷の観音様の夢のお告げで、「婿としてふさわしいのは、加賀の国の藤五郎である。」と受けて、すぐさま加賀の国へと向かい、 藤五郎尊とめでたく結婚されたのです。
名前は和子(わご・わこ)或いは美清女(みきよめ)と云われました。
籐五郎尊は毎日山に行って山芋を掘り、生計を立てていたのです
が、 右近から届けられる財産を喜びませんでした。
興味を示さない籐五郎尊和子は不思議がっていました。
ある日、和子の実家より金が送ってきました。
しかし、藤五郎尊はその価値を知らなかったので、雁(鴨の仲間)を捕まえるために全部投げ捨ててしまったのです。

これにはいつも温和な和子も怒り悲しみました。
藤五郎尊はこんなのなら、芋を掘るたびに金の小粒が出てくると御夫人に告げ、その需に応じて次の日観音様に念じ乍ら掘った芋を持って 和子をその沢まで連れて行きました。
洗うと金の小粒がキラキラと光を放ち、そこには今まで芋に付いていた砂金が山になっていました。

その沢は現在の兼六園の東南端の位置に古くからあり、庶民的な芋掘藤五郎尊の伝説とともに 「金洗いの沢」と親しまれていたと云います。
文禄元年(1592)、前田利家公がその名にちなみ、町の名前を「金沢」と改めたそうで、 現在金沢市といわれる由縁です。
沢はその後「金城霊沢」と呼ばれるようになり、現在に至っています。

それ以後も御夫妻はいとむつまじく村人の尊敬をうけ乍ら、この小粒で仏像を造り寺を建て安置し、村人たちは籐五郎尊御夫妻の菩薩を弔うて尊像を祀りました。
建てた場所が石川郡山科村の伏見という地名であったことから、伏見寺と名づけられたそうです。

行基山伏見寺は、元和元年(1615)加賀藩2代、前田利長公から土地を拝領し、中興、快存和尚により現在地に移築されたので、境内に墓もあります。

金城霊沢

金城霊沢金城霊沢
金城霊沢説明金城霊沢説明

山号の由来

行基山伏見寺の寺号については前述の通りですが山号の行基山は何に由来するかといいますと、行基菩薩からきています。
御本尊様は芋掘藤五郎尊がつくりましたが、仏さまとして信仰の対象にするためには仏像に御魂を入れなければなりません。
これを開眼供養といいますが、藤五郎尊は僧侶ではありません。
ちょうどその頃、この地に来ておられた大和の高僧行基菩薩様にお願いして開眼していただいたそうです。
この由縁がら山号を行基山にしたとのことです。 

金沢に来て8社目の参拝でしたが、行基菩薩は随所に携わっていらっしゃるみたいですね。

伏見寺の寺宝

国指定重要文化財
阿弥陀如来金堂仏像

国宝級
大聖不動明王尊・二大童子・観世音菩薩・多聞天・持国天
日光・月光菩薩・十二神将・愛染明王・歓喜天
芋堀籐五郎夫婦の尊像
芋堀籐五郎尊墓

伏見寺本堂伏見寺本堂
芋堀籐五郎尊墓芋堀籐五郎尊墓
 
伏見寺御本尊の御朱印伏見寺御本尊の御朱印

御本尊阿弥陀如来の御朱印です。
御本尊の時代鑑定では平安前期頃といわれ、数少ない金銅仏であります。
一説では日本でただ一つとも。

伏見寺不動明王の御朱印伏見寺不動明王の御朱印

護摩堂奥に安置されている、不動明王の御朱印です。
平安時代古相の製作技法をよく残しており、金沢における仏像文化の歴史を考察する上で極めて重要だそうです。

 
伏見寺霊場の御朱印伏見寺霊場の御朱印

主に金沢市に点在する、全34ヶ寺から成る観音霊場の一つです。
霊場第14番札所の御朱印「大悲殿」です。

 
伏見寺のスタンプ伏見寺のスタンプ

伏見寺に置いてあったスタンプです