御朱印

尾山神社

尾山神社アイキャッチ画像
尾山神社へは、金沢駅で下車して、安江八幡宮を参拝し近江町市場で軽く昼食をとり久保市乙剣宮を参拝した後やってきました。
途中尾崎神社もあった筈ですが気が付きませんでした。

尾山神社の御祭神は戦国の武将前田利家です。
前田利家については、テレビの大河ドラマなどで何度も放映されており、御存じの方も多いと思いますが、尾山神社を語るには必要不可欠なので、確認の意味で一言申し 添えたいと思います。

前田利家について

前田利家は、尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)の荒子城主、 前田利春の四男といわれます。
はじめ小姓として織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持ちました。

その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、能登 一国23万石を拝領し大名となりました。
信長が本能寺の変により明智光秀に討たれると、はじめは柴田勝家に付くが、 後に羽柴秀吉に臣従しました。
以後、豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、加賀国・越中国を与えられ加賀藩百万石の礎を築きました。

また、豊臣政権五大老に列せられ、豊臣秀頼の傅役(後見人)に任じられまた。
秀吉の死後、対立が顕在化する武断派と文治派の争いに仲裁役として働き、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力するが、 秀吉の死の8ヶ月後に病死さ れたとの事です。

参拝日 平成31年2月6日
所在地 石川県金沢市尾山町11-1
御祭神 贈従一位権大納言菅原朝臣利家(前田利家)
御利益 勝運、縁結び、出世運、子宝、夫婦和合

尾山神社の歴史

慶長4年(1599年)閏3月3日、利家公が薨去しました。
その後、二代利長公は、利家公を仰ぎ神として祀ろうとしました。       しかし、当時、前田家は、なんといっても外様大名の立場です。
徳川幕府の許可なくして、勝手なことはできません。
利長公とて、徳川幕府をはばかり、公然と神社創建に踏み切ることができませんでした。            

そこで利長公は、越中国の守山城におられたとき、守護神としていた物部八幡宮
ならびに榊葉神明宮を勧請して金沢城の東に卯辰八幡社を建て、ここに合祀しま
した。
この神社は、幕末になると藩の財政が乏しくなり荒廃が目立つようになったとの事です。

1871年(明治4年)7月、
卯辰山三社の一つである卯辰山天神社(卯辰神社、卯辰山天満宮)に前田利家の神像を遷座しました。

1872年(明治5年)
教部省出仕加藤里路(元金沢藩の権大属・宣教掛で、のちに尾山神社の社司)と 石川県参事桐山純孝が新たに藩祖を祀る神社を建てる計画をしました。
        
1873年(明治6年)
旧藩臣が集まり、前田土佐守家の前田直信が代表になり、金沢城の金谷出丸の跡地に新たに建立することにしました。

1873年(明治6年)
3月に政府より神社創立許可が出ました。
14日に創建し、社号を尾山神社としました。         
30日に卯辰山天神社に遷座していた前田利家の神像を尾山神社に遷座しました。
11月16日にはときの県令内田政風を始めとする官吏が参列して、卯辰山八幡宮
より神霊遷座が行われました。
社格は郷社に列格されました。

1873年(明治6年)
11月には前田家当主前田斉泰の子の少教正大聖寺藩知事前田利鬯(としか)が説教を行っています。         
次々と境内施設が整えられていきました。

1874年(明治7年)
3月に石川県中教院が設置されました 。
5月1日には中教院神殿の祭神4柱(造化三神・天照大神) の鎮座式が前田利鬯を祭主として県令・県下神職僧侶参列の上で行われました。

1874年(明治7年)
県社に昇格しました。

1875年(明治8年)
11月に特徴的な神門が造立されることとなりました。
この神門は長谷川準也大塚志良により計画され、長谷川家出入りの大工・津田吉之助(1827年 – 1890年)によって建てられました。

明治11年(1878年)
卯辰八幡社は宇多須神社となりました。

1879年(明治12年)
7月には前田利長・前田利常が相殿に祀られました。
9月には歴代藩主を祀る境内摂社として金谷神社が創建されました。

1902年(明治35年)
4月26日、長年の昇格請願運動が実り、米沢の上杉神社と同時に別格官幣社に昇格 しました。
また、7月3日から5日にかけて昇格慶賀祭が行なわれました。

平成10年
正室であるお松の方も合祀されました。

尾山神社拝殿尾山神社拝殿
尾山神社神殿尾山神社神殿
前田利家公像前田利家公像
お松の方像お松の方像
尾山神社尾山神社
尾山神社御朱印尾山神社御朱印