諏訪神社へは、魚津市御朱印巡りの一環として、魚津神社参拝後そのまま海岸方向へ歩いて行きました。
社務所の方は不在で、書置きの御朱印を頂いてきました。
諏訪神社の前は海が開けていて名物蜃気楼の見学の中心にもなっています。
また、夏季祭礼のたてもん祭りも有名です。
参拝日 平成31年3月5日
所在地 富山県魚津市諏訪町1-16
御祭神 建御名方神『お諏訪さま』
大山咋神『日吉さま』
事代主神『恵比寿さま』
頂いた資料を直記すると、お諏訪さまの信仰には、古くから雨や風を司る竜神の信仰や水や風に直接関係のある農耕の守護神として 、また水の信仰が海の守り神として、古くからある港の近くにお諏訪さまがお祀りされております。
神社の起源は古く大宝元年(701)までさかのぼるとのことです。
この地方は当時から信州地方との交易が盛んで信州へは汐屋海産物が、信州からは山の幸が運ばれました。
昔魚津の諏訪浜には信濃國諏訪本宮に豊漁を願って御贄(初魚)を奉納する習慣があり 神社は同大社から分霊をこの地に奉斎されました。
やがて越の大社となり諏訪の神垣の森として栄えたが 波濤荒く社地は遥沖合となりました。
やがて天正年間(1573-1592)魚津城主河田豊前守が社殿を再建したがまた連年の波浪に遭いました。
寛永11年(1634)8月魚津市街宿方浦方両肝煎役を新たに設けた時、下猟師町の北方六町ばかりの 海辺場市の浜(現在魚津北港まだ漁港にならないころ)の地に無各社諏訪社を再興し漁業の祭神として社壇を営んだが 社地はいよいよ狭隘となりました。
明治6年(1873)8月17日加賀國金沢藩魚津塩倉跡つまり諏訪町1-16の 現在地へ正遷座しました。
文禄3年(1595)4月魚津町餌指町の有志等漁業祈念の為本町2丁目の地に大山昨神を 祭神として村社日吉社を創建するが維持しがたくなり、
昭和7年(1932)6月19日村社日吉社を諏訪社へ合祀して諏訪神社と 改称され昭和15年(1940)2月8日富山県指定村社に列格されました。
平成7年(1995)6月12日本町2丁目の諏訪社を 合祀して現在に至っています。
魚津は肴の多くとれるところなので、その漁場を『あど』といっていました。
いつのまにかそれが地名となり、更にそれがなまって『小戸』というようになったそうです。
大同年間(806-810)には『魚堵七軒』と伝えられるが、後に次第に住民が増加して 『小津』と称するようになったそうです。
今のように『魚津』と改称されるようになったのは、その昔 、小津でとれた大鯛を加賀の前田藩主に献上したところ大いに喜ばれ殿様は以後『小』を『魚』と改め『魚津』 とせよと仰せられ鯛の受け取りに早速魚津と書いて下付されたという話も残っています。
『たてもん』は海難防除、豊漁及び息災延命への祈願、漁労への感謝を含んだ漁民の長い間の熾烈な信仰を 表したもので、現在の『たてもん』の形式に固定されたのが享保年間(1716-1736)であったといわれます。
昔から魚津は魚が沢山獲れ、猟師町として栄え氏子が祭礼に海の幸を山と積んで神前にたてまつった、『たてまつるものの祭り』 の呼び名がなまって『たてもん祭り』と呼ぶようになったと伝えられています。
これは帆をあげた船の形をしているともいわれ、台の 構造が模型になっており全国でも例をみないそうです。
現在7基ある『たてもん』は高さ16mもある大柱に、てっぺんには8本の 柳を付けその下に恵比寿額、そして80から90余りの提灯を三角形につるし下げ、その下に絵額『武者絵等』をつけて 長さ10m、総重量約5tもあり80人程の人によって威勢よく曳きまわされます。
提灯は明治の頃は25個程、大正の頃は50個程であったと伝えられ、提灯の絵柄は、海老・鯛・桜・梅・国旗・日の出・雪洞と いずれもおめでたい絵柄が描かれており、蝋燭の明かりが情緒を感じさせます。
たてもん祭りは勇壮且つ華麗で、その優美さはまさに夏の夜の風物詩で魚津の誇る郷土行事の一つであります。
『たてもん』は全国のいろいろな祭りやイベントに参加し、又、NHK朝の連続ドラマ『凛々と』の出演や、平成13年から3年 連続してハワイ『ホノルルフェスティバル』にも派遣されました。
昭和47年10月には7基の『たてもん』が県の有形民俗文化財、平成9年12月には『魚津のタテモン行事』が国の重要無形民俗文化財の指定、 平成28年12月にはユネスコ無形文化遺産に登録されました。