倶利迦羅不動寺(山頂本堂)

倶利迦羅不動寺山頂本堂アイキャッチ画像

別格本山倶利伽羅不動寺(山頂本堂)へは、あいの風とやま鉄道からIRいしかわ鉄道に乗り継いで倶利伽羅駅で下車して徒歩で参拝しました。
倶利伽羅駅から直線距離で東南東約2.5メートルの位置に立地しています。

テレビで八重桜が見頃だと放送されていてそれに触発されて参拝しました。
その割にはかなり散っていました。
熊の出没注意の看板があり、歩いているのは私一人だったし大変怖かったです。
ただ車の通行は激しかったです。

コロナ渦で神社仏閣御朱印巡りは控えていたのですが、これをきっかけに再開しようかとも考えています。

参拝日 令和5年4月23日
所在地 石川県河北郡津幡町倶利伽羅リ-2
山号 倶利迦羅山
寺号 不動寺
寺格 別格本山
宗派 高野山真言宗
御本尊 倶利迦羅不動明王
札所 北陸不動霊場第24番札所
   北陸白寿三十三観音霊場第18番札所

養老二年(718)、当山ホームページによると今から約1300年前の事ですが、中国から渡来したインドの高僧、善無畏三蔵法師が倶利迦羅不動明王の姿を彫刻された尊像を、元正天皇の勅願により奉安された事が倶利迦羅山不動寺の始まりと伝えています。

弘仁三年(812)それから約100年後の弘法大師が諸国を巡る途中で、不動明王を拝され、あまりの有難さに扉を閉められ、本尊と同体の不動尊像を彫り、御前立(おまえだち)の不動尊として奉安されました。
この時、別当山として長楽寺が開山されたといわれています。

寿永二年(1183)の倶利伽羅源平合戦の際、兵火に遭い、多くのお堂や寺宝、記録などが焼失したが、その後、源頼朝によって再興されたとの事です。
天正年間(1573〜1592年)の戦国時代には衰退し、廃寺同然となりました。
寛永年間(1624〜1644年)江戸時代ですが、秀雅上人が再興し、さらに加賀藩主前田家の祈願所や参勤交代の休憩所となったことから、社殿の再建や寺領の寄進が行われ、寺運が再び隆盛しました。

天保七年(1836)江戸末期に門前の茶屋から出火し、山門や不動堂が焼失しました。
しばらく再建されないまま廃れていたようです。
明治二年(1869)の明治政府による神仏分離令によって長楽寺は廃され、手向神社となりました。
その当時の仏像類は、金沢市の宝集寺、小矢部市の医王院、津幡町倉見の専修庵などに譲渡されたとの事です。

昭和二十四年(1949)廃寺から50年後、高野山の金山穆韶大僧正の尽力により、長楽寺跡に堂宇が再建され、御本尊さまの御名から倶利迦羅山と号し、不動寺(通称、倶利伽羅不動寺)として復興されました。
奥之院の不動堂は、旧高松小学校(現かほく市)の御真影奉安殿、本堂は旧金沢卯辰山忠魂祠堂を移築したものです。
以後、次第に道路や寺観を整えられ、県内外から多数の参詣者がお詣りされますとあります。

地名にもなっている「倶利伽羅」とは、インドの古典サンスクリット語kulikahに由来します。kulikahとは、倶哩迦や矩里迦とも音写され、その意味は「具黒」であり、龍王の名前とされました。
もともと不動明王に念ずる功徳がこの龍に降りそそぎ、この龍を駆使し加護を受ける事が出来るという信仰が、いつしかこの龍が「不動明王の化身」という尊格までになりました。
当山では、「剣に黒龍が巻きついたお姿のお不動さま」と訳しております。

養老二年、元正天皇の勅願により、インドの高僧善無畏三蔵法師が当山にて国土安穏・万民豊楽の祈願をなされた折、倶利迦羅不動明王を感得され、お姿そのままに彫刻し、奉安されました。
この倶利迦羅不動明王は、日本では唯一の仏さまであり、当山創建以来、千葉の成田不動尊(千葉県)相模の大山不動尊(神奈川県)と共に日本三不動のひとつとされ、縁日の28日には多数の参詣者が訪れ、北陸はもとより全国の不動尊霊場となっています。

当山の宗派は高野山真言宗です。
全国に約3,700ヶ寺ある高野山真言宗の寺院のうち、当山は「別格本山」にあたります。

弘法大師空海が、唐の青龍寺恵果和尚より真言密教の教えをことごとく授かり、弘仁七年(816)に嵯峨天皇より高野山の地を賜り、開山され、真言宗をひらかれました。以来、根本仏である大日如来を教主とし、日本八宗のひとつとして、時代と共に多くの人々の信仰を集めています。

現在、「真言宗」と名付く宗派は十八派が存在しますが、とりわけ、高野山奥之院・弘法大師御廟を信仰の源泉とし、壇場伽藍を修学の場所として、真言密教の教えと伝統を今日に伝える私たちの宗派を「高野山真言宗(こうやさんしんごんしゅう)」と言います。

ユミちゃん

教  主  大日如来
宗  祖  弘法大師空海
経  典  大日経、金剛頂経を主たる経典とする
総 本 山  金剛峯寺

     (和歌山県伊都郡高野町高野山132)

頂いた資料を私の備忘録として直記します。
今年も新型コロナウィルスの影響で中止となりましたが、本来は毎年四月にお不動様の境内で『念仏赤餅つき』が行われています。

この行事のいわれは、古来より越中・加賀、能登との交通の要衝であった倶利伽羅峠にまつわる言い伝えによるものです。
その昔、峠を往来する旅人が、山頂まで上り詰めてお不動様の門前に立ち並ぶ茶屋で一休みをしておりますと、突然に猿の群れがあらわれ、持ち物を持ち去ったり悪さをして旅人を困らせていました。

そのことをを知った時の和尚様が心を痛めていると、ある夜夢枕にお不動様がお姿をあらわされ「餅をついて赤く塗って猿たちに与えよ」とお告げをなされたのです。
さっそく翌朝村人たちに集まってもらい、心身を清め、念仏を唱えながらお餅をつき、それをそ赤く塗って猿たちの出るところに置きました。
猿たちはそのお餅をおいしそうに食べるとやがて姿を消し、それからというもの旅人たちに悪さをしなくなったといわれております。
以来、このお餅はお不動様の霊験あらたかな『厄除けのお餅』とされ。今日に受け継がれているものです。


赤は災難除けの色であり、赤ん坊のように邪心のない純粋な心をあらわす色です。
還暦の祝いに赤いドンコを身に着けるのと同じように、私利私欲をはなれて人として正しい道を歩むことが諸事災難を避ける第一の心がけでありましょう。
お釈迦様は、私たちの心の中には貪・愼・痴の三毒の煩悩があり、少しでも油断をするとすぐに出てくると諭しておられます。
その三毒の煩悩を猿にたとえ、日々の生活においても「油断こそ大敵」であり、それは思わぬ災難を招く元であることを意味するものです。
昔話の中に込められた仏の教えや私たちの生き方を、今一度考えてみたいものですとあります。

倶利迦羅不動寺 山頂本堂
倶利迦羅不動寺 山頂本堂
倶利迦羅不動寺山頂本堂御朱印3
倶利迦羅不動寺山頂本堂御朱印3
タイちゃん
タイちゃん

ユミちゃん、桜がきれいだったね

ユミちゃん
ユミ

開花のピークが過ぎていて少し残念だったかな。
コロナ渦で4年ぶりのお出かけだったので大変疲れちゃった