飛騨国分寺

飛騨国分寺のアイキャッチ画像です

姉に触発されて始めたばかりで、お寺さん用の御朱印帳を持っていなかったので飛騨国分寺で購入しました。
飛騨国分寺の御朱印が、私にとって記念すべきお寺さんの第一号です。

参拝日 平成30年4月26日
所在地 岐阜県高山市総和町1-83
山号 醫王山
寺号 飛騨国分寺
宗派 高野山真言宗
御本尊 薬師如来坐像(国の重要文化財)
札所 飛騨三十三観音霊場 第一札所
   中部四十九薬師霊場 四十一札所

天平13年(741) 
聖武天皇は国分寺建立の詔勅を下し、諸国に国分寺と尼寺の建立の詔が発せられました。
僧寺には七重の塔を造り、金光明最勝王経を写し、封50戸、水田10町を施入し僧 20人 と定められた。 その目的は金光明最勝王経の読誦講読による鎮護国家の理想実現と地方政治の確立、 文化の 開拓にあった。

平18年(746) 
開基を行基菩薩とし、建立されたとされます。

天平勝宝元年(749)
日本書紀に、大野郡大領飛騨国造高市麻は、飛騨国分寺に知識物を献じたので 従五位下を 授けられた旨記されているが、飛騨国分寺造営の消息を物語るものであろう。
奈良朝当時の伽藍配置については、現境内に塔の中心礎石が現存して文部省の史蹟に 指定され ており、また現本堂の床下に旧金堂礎石群が残存して、宝塔と金堂が南面して 併立していたこ とが実証さる。

弘仁10年(819)8月 
飛騨国分寺炎

斉衡2年(855)頃 飛騨国分寺再建される。

室町時代(1336~1573)
記録は定かではないが、本堂の焼失再建が 2度繰り返されたものだと想定されます。

元和元年(1615)
三重塔が再建される。

元禄8年(1695)
飛騨国が天領となり、高山城が取り壊され、一部は飛騨国分寺に移築され、鐘楼門など に利用される。

寛政3年(1791)
三重塔が暴風雨で倒壊する。

文政3年(1791)
三重塔が再建され現在に至る。

飛騨国分寺の本堂は室町時代の建立。
樹齢1200年を超える大銀杏と並び、飛騨地方唯一の三重塔がそびえる境内には高山城から移されたといわれる鐘楼門や、1200余年前の創建当時の塔礎石などがあります。
飛騨随一の古刹の名にふさわしい風格があります。

重要文化財(国指定)
本堂(室町中期)
木造薬師如来坐像(平安時代) – 一木彫成。像高145.7センチメートル。
木造聖観音菩薩立像(平安時代) – 伝飛騨国分尼寺本尊。
像高204センチメートル。
太刀(小烏丸(こがらすまる)の太刀、伝高原諏訪城城主江馬氏家宝)

史跡(国指定)
飛騨国分寺塔跡(奈良時代) – 七重大塔の心礎(心柱の礎石)、
上面に径1.3メートルの円柱座と舎利孔がある。

天然記念物(国指定)
飛騨国分寺の大イチョウ- 推定樹齢1250年、幹周10メートル、
高さ37メートルの大イチョウ。
古来「乳イチョウ」と呼ぶ。

岐阜県指定重要文化財
木造阿弥陀如来坐像(鎌倉時代) – 伝恵心僧都作。
木造不動明王立像(鎌倉時代) – 護摩堂の秘仏。
三重塔(文政4年再建) – 高さ22メートル余。

高山市指定文化財
国分寺鐘楼門
国分寺表門 附棟札

元は五重の塔であったが、上に記したように紆余曲折があって 文政4年三重に減じられて完成しました。
走高74尺露盤の大きさ方4尺、工賃金800両、大工500人を 要した。
屋根は柿葺であったが、大正11年塚越斧太郎居士の寄進で 銅葺に改めた。
白木造りの雄姿は山都高山の風物詩である。
本尊に大日如来を安置し、心柱には仏舎利を収めている。

鐘楼門は重層入母屋造りで、下層は旧高山城の一部遺構を移築したとされ
戦国時代の剛健簡素の建築である。
上層は宝暦11年に梵鐘の改鋳に際し 増築したものであるが上下層とも
よく調和を保っている。 (高山市有形文化財指定)

飛騨国分寺御朱印
飛騨国分寺御朱印